第39部分

「お嬢様。本日は様々な事がお有りでしたのでさぞやお疲れでしょう。この辺りでそろそろお休みになられては如何でしょうか」


 タチバナの戦闘論を理解するのに苦心していたアイシスが落ち着いた所を見計らい、タチバナが声を掛ける。


「え? 未だ早いんじゃ……」


 その声によって我に返ったアイシスがそう言いながら周囲を見渡すが、既に空はすっかりと夕焼けに染まっていた。未だ人類の生活圏からすら出ていないという事からもう少し進みたかったアイシスだったが、初心者である自身が夜間に進むのは危険だろうと思い直す。何よりも本日は異世界に転生する事から始まり、人生初の実戦を含む初めての体験を数多く味わったアイシスの肉体と精神は確かに疲れを感じていた。そしてタチバナの言葉によってそれを意識した事によりそれは更に顕著になる。


「……いえ、タチバナの言う通りね。少し早い気はするけど、今日はこの辺りで夜を明かす事にしましょう」


 様々な要因で上がっていたテンションによって誤魔化していた疲れをはっきりと感じたアイシスがタチバナの提案に賛成し、ずっと持ったままだったレイピアを鞘に納める。それを見たタチバナもナイフを仕舞うと、講義の際に適当に置いてあった二人分の荷物を素早く集め、両手に抱えてアイシスに問い掛ける。


「此処は未だ圏内でございますので、近くの農村で宿を取る事も可能かと存じます。如何なさいますか?」


 そのタチバナの言葉はアイシスにとっては意外だったが、考えてみれば当然でもあった。しかし、折角冒険の旅に出た初日の夜に誰かの家で泊まるというのは少々風情に欠ける。しかもこの世界ではそう珍しい事ではないかもしれないが、宿屋を営んでいる訳でもない他人の家にお邪魔するというのは少女にとって抵抗のある事だった。


「いえ。折角だからという訳じゃないけれど、この辺りでテントを張りましょう。……悪いけどお願い出来るかしら? 私は未だやり方を知らなくて」


 アイシスのその言葉にタチバナは首を横に振って答える。


「お嬢様が悪いなどと感じる必要はございません。お嬢様の為に雑事をこなすのは従者として当然の事でございます故。テントやお食事の用意は私が致しますので、お嬢様は楽になさっていて下さい。ですが此処は少々条件が良くないので、もう少しだけお歩きになれますか?」


 タチバナの言葉は無知なアイシスにとって確かに有難いものであった。しかし幼少期からそれが当然の事であったなら兎も角、普通の家庭に生まれ育った少女にとってはやはり全てを任せっきりにするのには抵抗があった。


「それじゃあその間、何か私にも出来る事は無いかしら? ……悪いと思っての事じゃないわよ。早くご飯を食べて休みたいだけ」


 これじゃあまるでツンデレじゃない。言っている本人がそう思うアイシスの台詞であったが、それを聞いたタチバナが一呼吸を置いて答える。


「……それではお嬢様には薪を集めて頂きたく存じます。この辺りは森林という訳ではございませんので少々難儀なさるかもしれませんが、それ程多くは必要ございませんのでどうかあまり遠くにはお行きになられぬ様お願い致します」


 本音を言えばアイシスには余り自身の傍を離れて欲しくはないタチバナだったが、主の意思を尊重して現状では最もアイシスが貢献出来る仕事を依頼する。タチバナがこれからする作業と並行して行う事が難しく、かつ料理に使う為に必須な作業である。


「分かったわ、任せておいて」


 タチバナに仕事を任せられるという喜びによって感じる疲れがやや緩和されたアイシスが元気良く答え、周囲の地面を見渡しながらその場を離れる。それを見送ったタチバナも付近を見渡し、テントを張るのに好条件な場所を探し始める。程なくして当たりを付けたタチバナは荷物を抱えたままその場所に移動するのだった。


 薪になりそうな枝数本、木の近くで見付けたアイシスだったが、久し振りにタチバナと離れた事で若干の心細さを感じると同時にタチバナの言葉を思い出す。離れ過ぎない様にと振り返ってタチバナの位置を確認すると、タチバナがテントを張る為の場所に移動しているのが見えた。そちらの方向に向き直り、落ちた木の枝を求めて周囲の地面を見ながら歩いていく。


 こうして薪を拾っているとまるでキャンプみたいね、行った事は無いけれど。アイシスがそんな事を思っていると、ふとある事に気付く。冒険の旅に出たつもりだったけど、未だ人間の生活圏から出ていないんだから実際にキャンプでしかないわ、と。でも実際に魔物とも戦ったんだからただのキャンプではないわよね。タチバナと離れた事でアイシスの思考は脳内で暴走気味になり、気付けば立ち止まってしまっていた。


「いけない。折角タチバナに仕事を任されたんだからちゃんとやらなきゃ」


 わざと口に出してそう言う事で頭を切り替え、アイシスは再び薪を探し始める。疲れを感じているのに身体を動かすのは少女にとって幼少期以来の事だったが、今のアイシスはその感覚や薪を集めるというただの作業でさえ楽しいと感じてしまうのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る