第37部分

「それでは……と口頭で説明するよりも、実際に体験なさった方がお分かりになり易いかと存じます。……お立ち上がりになれますか?」


 主に請われたので仕方が無くという体の割には実演まで交えての説明をしようとするタチバナが、その可否も含めてアイシスに問う。


「ええ、多分……そう言えばタチバナ。貴方、荷物はどうしたの?」


 それに答えながら立ち上がろうとした時、アイシスは漸くタチバナがナイフしか持っていない事に気付きタチバナに問い掛ける。特に考えがあった訳ではなく何となく目に入って気になったからというだけの質問だったが、それはアイシスにとってタチバナが既に家族の様に気兼ねなく話せる存在である事を表していた。


「あちらにございます」


 タチバナがそう言って先程まで自身が居た位置を右手で指す。すっかり立ち上がったアイシスがそちらを見ると二つの包みが無造作に地面に置かれていた。主が荷物を視認した事を確認してタチバナが話を続ける。


「緊急事態でございましたので放ってしまいましたが、お陰でお嬢様をお助けする事が出来ました。やはり荷物は直ぐに手放せる形に限りますね」


 主の視線が自らに戻った事を確認したタチバナが、右手のナイフを投げる様な素振りをしながらアイシスが目を瞑っていた間の出来事を説明する。それを見たアイシスは漸く何が起きていたかを理解する。つまり目前まで迫った巨蜂が私に到達するまでのほんの一瞬の間に、タチバナは荷物を手放してナイフを取り出してそれを投げたという事よね。しかもそれを正確に巨蜂の頭部に突き刺して一撃で倒している。その技術もそうだけど、主である私に決して当てないという自信が凄いわ。そう思考を辿ったアイシスはそこで漸くある事に気付く。


「そう言えばそのナイフ、ノーラの所で買ったものじゃないわね」


 タチバナが右手で遊ばせているナイフの刀身が黒くないという事に気付いたアイシスがそう問い掛けると、タチバナがその全体像をアイシスに見せる様に動かしながら答える。


「あのナイフは重く、形も左右対称ではないので投げるのには向いておりませんので」


 そう言ったタチバナがその両刃かつ鍔の無いナイフを自らの服の左袖に仕舞う。それを見たアイシスはそんな場所にナイフを仕込んでいたのかと心底驚くが、主の威厳を保つ為と元のアイシスは知っていた可能性を考慮して軽く受け流す事にする。思えば普段からタチバナは外から見える場所には武器を一切持っていなかった。


「成程ね。それじゃあそろそろ講義に入って貰おうかしら」


「かしこまりした。それでは説明の為に一度そちらのレイピアをお借り出来るでしょうか?」


 アイシスの要請をタチバナが即快諾し、レイピアの借用を申し出る。アイシスが少し意外に思いながらも「ええ」と答えて素直にそれを渡すと、タチバナはアイシスから少し離れた場所まで歩き口を開く。


「お嬢様、お腰に差してあるナイフを抜いてお構えになってみてください。ああ、構えは適当で結構です」


 次なるタチバナの発言はアイシスにとっては更に意外な物だったが、アイシスにとってタチバナの言動よりも信用出来るものはこの世界に於いては未だに存在しない。自分の正義や信念と反しない限りはそれに反対する理由は無く、またそうなるとも思っていなかった。


「こうかしら?」


 やや戸惑いながらも自らの衣服の腰部分、その後ろ側に当初から差さっていたナイフを言われるがままに引き抜く。手とナイフの位置関係により自然と逆手で引き抜く事になったが、正しい構え等知らぬアイシスは適当で良いというタチバナの言通りにそのまま前方に持っていって構える。その直後、タチバナがレイピアをアイシスに向けて構えた。


 突然の事に少々驚きはしたアイシスだったが、一切の恐怖を感じる事は無かった。タチバナが自らに危害を加える様な事をする筈が無いという内面への信用と、誤ってそうする事も有り得ないという技能への信頼。アイシスはそのどちらもを本日初対面の相手に対するそれとしては既に高過ぎる程に持っていた。


「お嬢様。先程の魔物との戦いではお嬢様は概ねこれ位の距離を取っておられましたが、こうしてナイフを持って相対した時にどうお感じになりますか?」


 タチバナのその発言から距離に関する話である事はアイシスにも直ぐに理解出来たが、その心は先程初陣を終えたばかりで訓練もした事の無いアイシスには分からなかった。よって素直に感じた事を口にする。


「遠い、と感じるわね。とてもじゃないけどナイフで攻撃出来る気はしないわ」


 そのアイシスの答えにタチバナは応えず、更に二歩程後ろに下がって再び剣をアイシスに向ける。


「では、この距離では如何でしょうか」


 その質問もやはり意図が分からないアイシスは再び素直に答える。


「更に遠いわね。というかこの距離じゃそっちも攻撃が届かないんじゃないの?」


「それがそうでもございません」


 アイシスが答えた直後だった。タチバナが鋭く踏み込み、アイシスの身体から人一人分程右側に向けて突きを繰り出す。突然の事に驚き殆ど反応する事が出来なかったアイシスが少し遅れてそちらに目をやると、もし自分が其処に居たら深々と刺さっていたであろう位置にレイピアが突き出されていた。


「大変失礼致しました」


 そう言いながらタチバナが姿勢を直す。その通りよ。タチバナを深く信頼しているアイシスも流石にそう思ったが、恐らくは自身の目の前で剣を止める事も出来るであろうタチバナにしては刺激が少ない方法を選んだのだろうと追及はしない事にする。アイシスは未だタチバナが言いたい事の全ては分かっていないが、それが分かった時にはただ口で言うよりも理解が深まるのは確かだろうとは思っていた。

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