第36部分
しかし実際に巨蜂の攻撃がアイシスに当たる事は無く、アイシスに届いたのは地面に何かが落ちる様な音だけであった。何が起きたのかとアイシスが恐る恐る目を開けると、そこにあったのはその頭部、人間で言えば額の辺りに深々とナイフが刺さっている巨蜂の死骸だった。タチバナが助けてくれた。それだけを理解したアイシスは深く安堵し、取り敢えず右手に持ったままの剣を鞘に納めてタチバナに礼を言う為に立ち上がろうとする。しかし足腰に力が入らず、それは叶わなかった。
「お嬢様」
そう言いながらタチバナが巨蜂の死骸とアイシスの方へと歩み寄る。その口調は力強く、直前に自身を呼んだ声を除けば、アイシスが初めて普段のそれとの差を明確に感じる事が出来たものだった。怒っているのかな、そうじゃなくても叱られるかな。そう考えたアイシスはまるで幼少期、母に叱られる時の様な恐れを感じて振り返る事が出来なくなっていた。
「戦闘に於いて……引いてはその他の物事に於いても同様ですが、最も大切な事は何だと思いますか?」
未だ動かないアイシスからその内心を感じ取ったタチバナは、可能な限り柔らかな口調を意識してアイシスにそう問い掛けながら巨蜂の死骸まで歩き、頭部に刺さったナイフを抜き取る。アイシスには普段通りの口調にしか聞こえなかったが、一先ず怒ってはいないと感じたアイシスはそのままの姿勢でその問いについて考える。
戦闘で最も大切な事。今しがた初めての戦闘を終えたばかりの少女にそんな事が分かる筈も無かったが、タチバナが自分に何かを伝えたいという事はアイシスにも分かった。であれば分からないと即答する様な事はしたくなかった。今の戦いは自分でも驚く位に上手く行ったのだから、言いたい事は最後の部分についてである筈だ。
「ええと、止めはきちんと刺す……他の事にも当てはめるなら、やった事をちゃんと確認する? という事かしら」
とはいえ完全に動きが止まっていたのだから倒したと思うのは仕方が無いとは思いつつも、アイシス他の答えは思い付かなかった。そのアイシスの答えを聞き、メイド服のポケットから取り出した布きれでナイフを拭いていたタチバナが漸くアイシスの方へ視線を向ける。
「確かにそれも大切ではありますが、例えば大勢に囲まれた際等、そんな事をしている場合ではない時もございます。戦闘に於いて最も大切な事、それは思考を止めないという事です」
「思考を、止めない……」
「はい。先程の場面ですが、不意を突かれてしまうまでは仕方が無い事です。しかし思考を止めなければ剣で反撃、或いは防御をする。それが難しいなら回避を、完全にでなくせめて致命傷だけでも避ける。この様に経験や技術によって取れる行動は変わって参りますが、どれであっても思考を停止して何もしないよりは必ず良い結果になる筈です」
そのタチバナの説明を聞いたアイシスは心底納得する。タチバナが助けてくれるという甘えが心の何処かにあったとはいえ、先程自分がした目を瞑ってしゃがみ込むなんて行為は思考停止の最たるものであった。
「……ありがとう、タチバナ。思考を止めない……しっかりと胸に刻んで、今後はさっきみたいな無様は見せない様にするわね」
大切な事を、ただ教えるのではなく教訓と思考を経た上で教えてくれた。何よりも自身を守ってくれたタチバナにアイシスが心からの礼と決意を述べる。それを聞いたタチバナがアイシスに武器を拭く為の布を渡してから口を開く。
「お嬢様も武器をお拭きになってください。そうそう錆びる様な事は無いかとは存じますが、やはり武器は手入れが大切ですので。……それと勘違いなさらないで頂きたいのですが、私が物を申したかったのは最後の場面のみでございます。寧ろそれまでの戦いはその動き、機転も含めて初陣とは思えぬ程にご立派でございました。……正直に申し上げれば予想外という程に。ただ……いえ、何でもありません」
「ただ? 気になるから構わず言って頂戴」
タチバナが話している間にアイシスは武器を拭き終えていた。アイシスは自分でも意外な程に落ち着いて戦えたと思っていたが、それはタチバナにとっても同様であった。ともあれタチバナに褒められた事はアイシスにとって大きな喜びであったが、今は珍しくタチバナが言い淀んだ事への興味が勝り、布をタチバナに返しながら反射的に訊き返す。
「いえ、その立派な戦闘に於いても気になった事がいくつかあるのですが、私とお嬢様では能力も適性も異なります。ですので何もかもを私の感覚で指摘するべきではないと思い直した次第でございます」
学校にも碌に通えなかった少女にとってタチバナは両親を除けばまさに初めての師である。そんなタチバナがこうも自分の事を考えてくれる事を嬉しく思うアイシスだったが、やはり此処はその指摘を聞いてみたくなるのだった。
「成程ね。それじゃあその気になった事の中で、私でもタチバナでも誰であっても変わらない事もあるでしょう? それだけでも教えて頂戴」
タチバナが敢えて口にしなかった事をこうして強引に聞き出そうとするのは自分でも珍しいとアイシスは思ったが、タチバナが気になったという事は直すべき点である可能性が高い。しかし何よりも、学校に通えなかった少女にとって尊敬する相手から物を教わるという行為自体がとても新鮮で楽しいものなのであった。
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