第35部分

「ああ、忘れていたわ。タチバナ、これをお願い」


「かしこまりました」


 そう言って自身が担当していた分の包みをタチバナへと渡し、巨蜂の許へと着実に歩みを進めるアイシスだったが、彼女は元は病弱な少女であり戦闘や喧嘩はおろか碌に運動さえ何年もした事が無かった。そんなアイシスが実際に互いの命を懸けての戦いに臨む事に恐怖を感じない筈が無い。その足はともすれば震え出してしまいそうであり、その胸中には不安が湧き続けていた。当然ながら無事に魔物を討つ自信など毛頭無かった。それでも彼女はその歩を止めず、覚悟を持って魔物へと向かっていく。


 アイシスをそうさせていたのは他者への信頼だった。自分の腰に差してあるレイピアと、それを作ったノーラへの信頼。そして自らにこの戦いを勧め、今も傍で見守っているタチバナへの信頼。タチバナが自分にそうさせるのであれば十分に勝機がある筈であり、この剣ならばそれを叶えられる。そして少々後ろ向きではあるが、たとえ自分が危機に陥ったとしても必ず助けてくれるという信頼。それらは少女が勇気を振り絞るのに十分な助けとなった。


 アイシスが巨蜂に近付くにつれ、耳に届くその羽音は大きくなっていく。それは既に大の大人であっても恐怖を隠せない程の不快音となっていたが、覚悟を決めたアイシスが怯む事は無かった。やがてアイシスがその気になれば十分に攻撃を加えられる程に彼我の距離が縮まったが、未だ魔物はアイシスに気付かない。本当に互いの生命を懸けた戦いならば先制攻撃を加えるべきかもしれないが、此方にはタチバナという一種の保険が掛かっている。そもそも経験を積む事が目的なのだから不意打ちは論外だ。そう考えたアイシスが鞘から剣を引き抜きながら名乗りを上げる。


「巨蜂よ。このアイシス・ハシュヴァルドが正々堂々相手をしてあげるわ。さあ、此方を向いてかかって来なさい!」


 その声に反応した巨蜂が低空を飛んだままアイシスの方へと向き直り、口を鳴らして威嚇をする。蜂特有の外見をそのままに巨大化したその姿はアイシスにとって強い恐怖を感じざるを得ないものだったが、彼女はその恐怖を抱えながらも強い意志で巨蜂と相対する。右半身を前方に向ける様に半身になり、右手に持った剣を巨蜂へと向けて牽制する。


 それが効いているのかは昆虫特有の無表情な顔からは分からないが、巨蜂はその場をホバリングしながら威嚇を続けている。このままで居れば攻撃をされる事は無い……そんな消極的な考えを振り払い、アイシスが姿勢を保ったままじりじりと距離を詰めていく。そして腕を伸ばせば切っ先が相手に当たる距離になった時だった。


「えい!」


 その掛け声と共にアイシスが仕掛ける。前に出した右足へと荷重を移動し、その勢いのまま一気に右腕を伸ばして力の限りレイピアで巨蜂の胴体を目掛けての突きを繰り出す。それは巨蜂の外皮を僅かに傷を付けたが、滑らかな外皮によって軌道をずらされて巨蜂の身体に突き刺さる事は無かった。そしてその結果僅かにバランスを崩したアイシスへと巨蜂が飛んで襲い掛かる。しかしその動きはそれ程素早いものではなく、アイシスはその軌道を読んでやや大袈裟に身を躱す。そして再び先程と同様の構えを取って切っ先を巨蜂へと向けた。


 さっきの攻撃が弾かれたのは剣のせい? いいえ、私が未熟なだけよ。そう、確か昆虫は外骨格といって外皮は鎧みたいなものだった筈。しかもそれが宙に浮いていて、当然だけど向こうも動くのだから私みたいな素人が闇雲に突いても力が逃げてしまってきっと刺さりはしないわ。レイピアの切っ先で巨蜂を牽制しつつ、アイシスは頭の中で先程のやり取りを分析する。初めての実戦であるにもかかわらず、自分でも驚く程にアイシスは冷静さを保てていた。


 でもそれが分かった所で剣が刺さらないんじゃ今の私では……。そこまで考えた所でアイシスにある考えが浮かぶ。後は実践してみるだけだ、と再び姿勢を保ったまま巨蜂との距離を縮めていく。先程と同様、腕を伸ばせば切っ先が届く距離になった時だった。


「やあ!」


 掛け声と共にやはり突きを繰り出す。が、今度はそれ程は力を込めておらず、その鋭さは先程よりも劣っていた。その為に今度はそれをアイシスから見て左側へと躱した巨蜂が、再びアイシスへと真っ直ぐに飛び掛かる。


 しかし今度はバランスを崩していなかったアイシスは突っ込んで来る巨蜂の右側に回り込み、巨蜂の羽に向けて右側からええいと横一文字に切り付ける。バチバチと音がしてその羽が切り裂かれ、十分な揚力を失った巨蜂は地面へと墜落する。巨蜂はなおも羽ばたき続けるが、その身が再び宙を舞う事は無かった。寧ろその動きによりバランスを崩した巨蜂は横向きになって地面でもがく事になった。


 そうしてもがく巨蜂の許へアイシスがゆっくりと歩み寄る。そしてその身を跨ぐように立つとレイピアを右手で逆手に持ち、左手を柄の上に乗せる様にして構えた。


「……今度はもっと善いものに生まれなさい」


 そう呟き、巨蜂の胸部へと体重を掛けてレイピアを突き刺す。巨蜂の羽ばたきが一層激しくなったが、それは直ぐに止まった。アイシスがゆっくりとレイピアを引き抜くと緑色の体液が傷口から溢れ、やがて未だ動いていた巨蜂の足もゆっくりと停止する。


「やった、やったわ! タチバナ!」


 アイシスがそう言って初めての勝利の喜びを爆発させながらタチバナの方へ向き直った時だった。


「お嬢様!」


 そのタチバナの声はアイシスが今日聞いた中で間違いなく最も大きなものだった。それと同時にまたも巨大な羽音が響き、アイシスが驚愕と共に其方へと振り向く。そこには動きを止めた筈の巨蜂が力を振り絞ってアイシスへと飛び掛かって来ていた。


「きゃあっ」


 倒した筈の魔物の突然の逆襲と間近で見るその姿にあまりの驚愕と恐怖を感じたアイシスはそう悲鳴を上げると、思わず目を瞑ってしゃがみ込んでしまうのだった。

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