第34部分

 そうして確かな足取りで暫く歩いていたアイシス達であったが、やがてアイシスの歩く速度がやや落ち始める。タチバナの言にもあった通りアイシスの身体能力は決して低くはない為、これは身体的な疲労によるものではなかった。いつまで経っても代り映えのしない平和な農村の景色によって、冒険に期待していたアイシスの情熱が冷め始めた事が原因である。とはいえ本来ならばそれが直ぐに歩く速度という身体的な要素への影響とはならない筈であるが、数年の間を病室でのみ過ごした少女にとっては今日という一日にした運動量は既に未踏の領域に達していた。そして何よりも、本日既に経験した数々の経験があまりにも新鮮で素晴らしいものであったが故に、今の変わらぬ景色をそれらと無意識に比較してしまい結果として自らの気力を減退させてしまっていたのである。


 当然ながら横を歩くタチバナはアイシスのその変化、内心は兎も角としても歩く速度が下がっている事には気付いていた。そしてこれも当然だが、それが身体的な原因ではなく精神的な問題であろう事も察していた。だが、アイシスからは完璧な人間とさえ思われているタチバナにも不得手な事は無論存在する。本人の言にもあった通り魔法がそうであるし、人とのコミュニケーションにも長けているとは言えなかった。よってタチバナは主の変化にもその原因にも気付いているにもかかわらず、自分がどうすれば良いのかは分からなかった。


 そして当の本人であるアイシスだが、彼女は自身の変化には気付いていなかった。変化の少ない景色に飽きているとは感じていたが、自身の速度が落ちているとは思っていなく未だ自らの胸中に情熱の炎を燃やして目標に突き進んでいるつもりであった。


 どうしたものか。そう思うタチバナだったが、これは別に急ぎの旅ではなく、歩行速度もそう著しく下がっている訳ではない。今日一日は様々な事があったからアイシスも疲れているだろうし、このままでも別に構わないか。そんな事を考えていた時、タチバナは視界の端にあるものを捉える。


「お嬢様、あちらを」


「あら? 何かしら」


 アイシスが其方へ視線を向けると、タチバナが右手で指し示した場所には巨大な蜂らしき生物が飛んでいた。二人の位置からは結構な距離があったが、それでも一目で蜂らしいと認識する事が出来た。その大きさは単純な体長でアイシスの身長の半分以上はあり、アイシスにも一目で通常の昆虫ではないという事が理解出来た。


「あれは、まさか……」


「はい。あれは魔物の一種、巨蜂(ジャイアント・ビー)だと思われます」


 タチバナは事も無げにそう答えるが、アイシスにとっては驚愕すべき状況であった。此処は未だ人間の生活圏内の筈じゃ? それともいつの間にか圏外に出ていたの? 先程までの退屈は一挙に吹き飛び、アイシスの精神には緊張が走る。


「お嬢様、丁度良い機会かと存じます。あちらの魔物、巨蜂と戦ってみては如何でしょうか。巨蜂はその名前と見た目の通りに蜂が巨大になった様な魔物ですが、その巨体故に通常の蜂の様に素早く飛ぶ事が出来なくなっております。それ故に危険度も低いので、初陣の相手としては悪くないかと存じますが」


 更にはタチバナがとんでもない事を言い出し、アイシスの頭の中は混乱を極める。そもそも少女は特別昆虫が苦手という事はなかったが、それでも同年代の多くの同性がそうである様に好ましいとは思っていなかった。それがこうも巨大になったものを見るだけでも精神的に辛いというのにそれと戦えとは。そもそも私は実戦はおろか訓練さえしていないのに。混乱した頭に様々な考えが去来するが、その間も魔物をじっと見ていたアイシスはある事に気付く。


「でも、あの魔物は未だ何もしていないんじゃないかしら? ただ、あそこの木に成っている果実か何かを食べようとしているだけに見えるけれど」


 その言葉通り、巨蜂はその巨体を懸命に浮かせて木の上の方にある果実を食べようと奮闘していた。アイシスとタチバナには一切気付いておらず、ただ自身の食糧を調達する事に夢中であった。タチバナは巨蜂とアイシスを交互に見た後、一つ息を吐いてから口を開く。


「……お嬢様。私はお嬢様のその心優しさを誇りに思っておりますが、この世にはそれが通じない、或いはそれを捨てるべき相手も存在するという事はどうかご承知おき下さいませ。ですが、お嬢様があの魔物を討つ事に心を痛められるのであれば、私が代わりに討伐致しましょう」


 そのタチバナの言葉を聞いたアイシスは先ず少し照れを感じ、次にタチバナの影を感じ、最後には意外だと感じた。


「え? 見逃してあげる事は出来ないのかしら」


 アイシスは未だ混乱が静まっておらず、その言葉には素の少女の性格がやや濃くなっていた。元のアイシスなら喜び勇んで魔物に挑みかかっていただろう。尤もタチバナはその変化をどちらかと言えば好ましく受け取っていたが。


「……お嬢様。先程あの魔物は危険度が低いと申し上げましたが、それは飽くまで武具と覚悟を持った私達の様な冒険者から見ての事でございます。此処は未だ人間の生活圏内ですので一般の方も多くいらっしゃいますが、素手や農具では巨蜂の対処は困難を極めます。そして動きが鈍いとはいえあの巨大な毒針で刺されてしまえば普通の人間では命はありません。故に圏内に入った魔物は討伐しなければならないのです。……境界の近くであれば圏外の側へと導くという事も不可能ではございませんが」


 そのタチバナの言葉を聞き、アイシスは覚悟を決める。どうしても討たなければならないのであれば、自分が戦うべきだと。タチバナに任せてしまえば自身に危険は及ばないが、それこそ人が羽虫を潰すが如くそこに何の利も生まれない。奪わねばならぬ生命であるならば、せめて自身の経験という糧にすべきだと。何よりも、冒険者を志すならば避けては通れぬ事である。


「分かったわ。それなら私があの魔物の相手をする。……いつかはやらなきゃいけない事だしね」


 そう言ったアイシスがゆっくりと巨蜂の方へと歩き出し、その後ろをやや離れてタチバナが続く。気付けば陽が随分と傾いていた茜と青が混ざる空の下、痛い程に早い鼓動を感じながらアイシスが初めての戦いへと向かうのだった。

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