第33部分

「わぁ……」


 抑え切れずに感嘆の声を漏らしたアイシスの目に映るのは遥か先まで続く一本の道、そして一面に広がる緑色の世界だった。先ず目に入ったのは一定間隔で生えている何らかの植物。広範囲に同じものだけが生えている事から何らかの畑だと推察出来た。遠くには背の低い小屋や水車が見え、この一帯はまさに農村といった佇まいだった。それ以外にも道端には何らかの草木が規則性なく繁茂しており、その風景は少女がかつて夢見た田舎そのものだった。


 全てが初めて見るものであるアイシスは目移りしながら歩いていたが、明確な目標に向けて足を止めるという事はしなかった。その目標は先程まで滞在していた都市から見て西の方向に在る筈、とアイシスが其方の方に視線を向ける。其方を見ても相変わらず殆ど緑一色の風景だったが、遠方に向かうにつれて標高が高くなっている様に見えた。


 あ、蝶々が飛んでいる。あの花の名前は何だろう。今日はいい天気で良かったなあ。そこの木の上で小鳥が鳴いている、少し五月蠅い。あ、誰かが畑で何かの作業をしている様だ。そんな様々な事に興味を持ちながらも目標へ向けてしっかりと歩を進めている……つもりであったアイシスにタチバナが声を掛ける。


「……お嬢様。もし何かにご興味を持たれたのでしたらご無理をせず立ち止まってご覧になっても宜しいのですよ。これは何も急ぎの旅ではございませんので。それと何か気になる事がございましたら、仰って頂ければ私が知る範囲でご説明致します」


 その言葉にアイシスは赤面する。タチバナがわざわざこんな事を言って来たという事は、真っ直ぐ目標に向けて歩いていたつもりの自分は、実際には無理をしている事が明白な様子だったという事である。事実、タチバナから見たアイシスは若干挙動不審にふらふらと歩き、その速度も安定していなかった。その為にタチバナは自身の位置をアイシスの隣に保つのに若干苦労はしていたが、今度の提言は飽くまで主を思っての事である。


「いえ、大丈夫よ。……まあ何かしら訊く事はあるかもしれないけれど、それも歩きながらにしましょう。急ぎではないと言っても此処で油を売っている訳にはいかないわ」


 実際にはアイシスも色々な物をじっくりと見たいという気持ちはあったが、それ以上に早く魔法を習得してタチバナに頼るだけの自分ではなくなりたいという思いが強かった。だからといって旅自体を楽しまないのは勿体ないとも思っていたが、それでもむやみに足を止めたくはなかった。


「かしこまりました。……それではこのまま進んで参りましょう」


 差し出がましい事を申し上げてしまい申し訳ございません。という謝罪を本来はすべきだと思ったタチバナだったが、些事に関する自身の謝罪をアイシスが好まない、或いは好まなくなった事は今日という一日で把握していた。


 その後もアイシスはややふらふらと歩いてはいたが、先程よりは真っ直ぐに進んでいた。そして再び西側に視線を向けた時、アイシスは先程から気になっていた事をタチバナへと尋ねる。


「そういえば、街を出てから何となく北に進んでいるけれど目的地は西側よね? 西に直接向かわないのかしら?」


 その言葉にタチバナも西側を一瞥し、そのままアイシスの方を向いて答える。


「確かに一見するとそのまま向かえそうにも見えるかと存じますが、あちらの遠くに見えている森は実際には人が足を踏み入れる事が出来る様な場所ではございません。木々が密集し過ぎてまともに通れる道も無く、また勾配がきつすぎます。……私一人であったとしてもそちらから向かおうとは存じません、と申し上げれば分かり易いでしょうか」


 タチバナの言葉からそれが無謀であるという事をアイシスは十分に理解する。何よりも最後の一言でその説得力は何倍にもなったとアイシスは感じたが、そんな場所に別の方向からなら行けるのだろうかという新たな疑問が浮かぶ。


「成程ね。でもそんな場所なら回り込んだとしても行くのは大変なんじゃない?」


 冒険初心者の私が居たら、という言葉をアイシスは吞み込む。従者に無駄に気を遣わせるのは良い主とは言えないだろう、アイシスはそう思った。


「いえ、北側からであれば勾配が緩やかになっておりますのでそれ程は苦労をせずに済む筈です。その辺りの森が足を踏み入れられる様になっているかを私は存じませんが、ノーラ様がお勧め下さったのですからきっと問題は無いでしょう」


 そのタチバナの言葉を聞いて、アイシスは少しだけ意外に思った。タチバナが自分以外の言葉を当てにするという事を。大抵の問題は自らの力で解決出来るという自信があっての事だとは思うが、タチバナにとってもノーラはそれだけ信用出来る人物だったという事なのだろう。そしてそれはアイシスにとっても同じであり、この件への疑問は完全に無くなった。


 北に向かう事に納得し、周囲の風景にもある程度見慣れて来たアイシスの歩みは当初よりも確かなものになる。未知なる世界への探求心、確かな目標への情熱、冒険への憧憬。そんな様々な思い、希望が確かな足取りとなってアイシスを動かすのだった。

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