第32部分

 そのままの勢いでアイシスが更に出入り口に近付くとその付近はちょっとした広場の様になっていた。歩きながら周囲を軽く見回すと、目当ての井戸も直ぐに見付かる。だが少女は今までに井戸を使った事など当然無い為、またもタチバナに頼らざるを得なかった。尤も、アイシスは既にタチバナを頼る事が許される存在と認識している為、必要な際にはそれを躊躇ったりはしないのだが。


「それじゃあタチバナ、お願いね」


「かしこまりました」


 井戸の付近まで近付いたアイシスがそう言うと、タチバナが即座に受諾する。井戸は結構な大きさであり、その蓋となっている年季の入った木の板もそれに見合う大きさがあった。更に井戸の湿気からか水分を吸って黒く湿っており、アイシスは一目見ただけでもその重さが想像出来た。流石に片手では持ち上げるのは難しいだろうと、タチバナの荷物を一時的に預かる旨をアイシスが伝えようとした時だった。


 左手に荷物を抱えたままのタチバナが板の端を右手で掴み、地面と平行を保ったまま僅かに持ち上げる。そのまま井戸の半分が露わになる程度に板を移動させると、それをそっと井戸の上に音を立てずに置く。てこの原理って何だっけ、タチバナの強靭な手首にそう思うアイシスだったが、その言葉は胸に仕舞い引き続きタチバナの行動を見守る事にする。


 タチバナは備え付けの紐の付いた木桶を井戸の中に落とし、それに水が十分に入った事を確認するとそれを引き上げ始める。流石にその動作は片手では厳しいのではと思うアイシスを後目に、タチバナはそれを右手一本で中の水量を保ったまま自らの高さまで到達させる。その桶を井戸の蓋の上に一度置くと、懐から水筒を取り出して木桶から水を汲む。その様子を見ていたアイシスは、タチバナの身体能力や技能にその都度驚いていては心身が持たない事を察し、今後はなるべく驚かないようにしようと考えていた。


「お嬢様?」


 その思考に没頭していたアイシスにタチバナが声を掛ける。


「ああ、少しぼうっとしていたわ」


 現実に引き戻されたアイシスは即座に状況を理解し、そう言いながらポーチから水筒を取り出してタチバナに渡す。タチバナがそのピンクの水筒にも水が汲み、木桶を片付ける為に一時的に井戸の蓋の上に置く。そうして色違いでお揃いの二つの水筒が並んだ姿を見たアイシスは、そこから洗面所に並ぶお揃いの歯ブラシを連想してしまう。そのまま自身とタチバナの同棲生活まで想像してしまったアイシスは顔を真っ赤にしながら首をぶんぶんと横に振り、自身の邪な考えを振り払おうとする。


 手早く手桶を片付けたタチバナはそのアイシスの様子をじっと見ていたが、謎の動きをする主にどう声を掛ければ良いかが分からなかった。結局、アイシス自らが平静を取り戻すまでタチバナはただ待つ事しか出来なかった。


「お嬢様、此方を」


 アイシスが平静を取り戻したタイミングを見計らい、タチバナがアイシスの水筒を差し出しながら声を掛ける。


「え、ええ。ありがとう」


 自身の妄想の内容からタチバナを直視出来ないアイシスが目を逸らしながらそれを受け取ると、タチバナは自身の水筒を懐に仕舞い、井戸の蓋を先程と同様に持ち上げて元の場所に戻す。アイシスは顔の火照りを鎮める為に早くも水を飲みたかったが、流石にそれは宜しくないと我慢して水筒をポーチへと仕舞い、深呼吸を一つする。


 よし、これで落ち着いた。水筒に水を汲んだからこれで冒険に出る準備は本当に完了した。つまり、私はいよいよ冒険の旅に出発するんだ。あの頃読んだ小説の主人公みたいに。改めてそう考えた結果、またも胸の高鳴りを抑えきれなくなったアイシスは高らかに出発を宣言しようとする。しかし出入り口の外側に見張りの兵士が二人立っている事に気付いて思い止まる。改めてもう一度深呼吸をし、タチバナへと向き直ると右手を出しながら口を開く。


「それじゃあ行きましょう、タチバナ。目指すは秘境、エルフの大賢者の森へ」


 真っ直ぐにタチバナの目を見つめてやや芝居がかった台詞を言うのは恥ずかしかったが、熱心な読書家であった少女にとって冒険の始まりとはこういうものであった。それをぶつけられた側であるタチバナは暫しアイシスと目を合わせたままでいたが、荷物をわざわざ一度地面に置くと両手でメイド服のスカートの両端を掴み、左足を引いて膝を曲げ所謂カーテシーのポーズで軽く会釈をしながら口を開く。


「かしこまりました、お嬢様。このタチバナ、全霊を以てご助力をさせて頂きます」


 自身の言動に合わせたであろうタチバナの芝居がかった言動を見て、アイシスは気恥ずかしさと嬉しさを同時に感じる。


「ええ、それじゃあ行きましょう」


 それを誤魔化す様に今度は普段通りの口調でそう言うと、アイシスが出入り口に向けて歩き出す。水筒に水が入った事もあり少々の重みを感じたが、その歩みは鈍る事は無かった。その後ろからタチバナがすっとアイシスの右側に出る。突然の事にアイシスは少々驚いたが、それに言及する事は無かった。タチバナの行動には必ず論理的な理由があるという信頼を既にアイシスは持っていた。二人が並んで街の外へ向けて歩いて行く。徐々に近付く外の景色にアイシスのテンションは否応なく上昇していった。


「幸運を」


 そうして遂に出入り口をくぐった時、門番の兵士が二人にそう声を掛ける。しかしアイシスの胸中は遂に迎えた冒険への旅立ちの感動と、目の前に広がる景色への感動で一杯になっており、失礼かもしれないとは思いつつも足を止める事は出来なかった。


「ありがとう」


 何とかそれだけを口に出し、少女は長年憧れた広い世界への旅立ちを果たすのだった。

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