第31部分

「お嬢様、準備と最終確認が終わりました」


「分かったわ。ありがとう」


 アイシスが最後の確認を依頼してから程なくして、タチバナがその作業を終える。これにて準備完了ね、と言いたい所ではあったが、未だやる事が残っている事はアイシスにも分かっていた。取り敢えず自分が持つべきである小さい方の包みを持ち上げると、それは思っていたよりも軽かった。用意した物資の重さを考えればタチバナの方に重さがかなり偏っている事になり、アイシスはそれではタチバナに悪いと思いかけたが直ぐに思い直す。彼我の立場の差を無視したとしても、身体能力の差を考えれば妥当な分け方であると。先程の雑貨店前でのタチバナの芸当を思い出せば当然の思考であった。


「それじゃあ旅立ちましょう。……と言いたい所だけど、先ずは水筒に水を汲まなきゃよね。何処で汲むべきかしら?」


 この宿にも水道の類はあるだろうとアイシスは思っていたが、この世界の文明水準を考えればそれが十分に衛生的であるとは思えなかった。少女が元居た世界でさえ水道水をそのまま飲用に出来る国は限られていたのだから。それ故に此処では素直にタチバナを頼る事にしたのだった。


「ノーラ様からご紹介頂いた方の元へ向かうという事で宜しければ、北側の出入り口から旅立つという事になります。丁度その付近に井戸がございますので其方で汲めば良いでしょう」


 タチバナのその返答に、打てば響くとはこの事かとアイシスが感動を覚える。しかし立場上はそれも許されるかもしれないし、本日この世界に来たばかりであるという状況的にも仕方が無い事とはいえ、現状ではタチバナにあらゆる面で頼ってしまっている事が少々歯がゆいのも事実であった。完全に対等に並び立つ事は今後も不可能に思える程にタチバナは優れた女性だとアイシスは思っているが、せめて本人も不得手と言っている魔法を習得して何とか支え合いたい。最初の冒険の目的を改めて定め、アイシスは決意を新たにするのだった。


「ええ、そのエルフの大賢者……とやらに是非会いたいわ。先ずはその北の出入り口、の周辺の井戸に向かいましょう」


「かしこまりました。このタチバナ、微力ながらお力添えさせて頂きます」


 貴方が微力なら誰がそうじゃないのよ、というツッコミは胸に仕舞いアイシスが先行して部屋を出る。その後にタチバナが続き、二人はそのまま階段を下っていく。


「おお、アイシス様。ご準備はお済みになられたようですね」


「ええ、お陰さまでね」


 一階へ降りると共に店番の男がアイシス達に声を掛けて来る。アイシスはそれに応えながらも歩みを止める事無く玄関へと進んで行く。


「ご利用ありがとうございました、アイシス様。それでは行ってらっしゃいませ。ご帰還の際には是非またご利用をお願い致します!」


「気が向いたらね」


 外に出ようとするアイシス達の背中に向けられた男の言葉にアイシスが少しだけ振り向き、右手を軽く上げながら悪戯っぽく微笑んで答える。そのまま振り向いて出て行ったアイシスには知る由も無いが、それを見た男は思わず赤面していた。アイシスがその表情をした理由は、今後は無駄に高い部屋に泊まるつもりは無い事を隠して出て行くからであったが、男がそれを知る由もまた無かった。


 北ってどっちだっけ。宿屋を後にしたアイシスはつい口に出かけたその言葉を呑み込む。頼りっぱなしは良くないと思うのならば、せめて今の自分でも出来る事はするべきだという考えからである。先程タチバナに準備して貰った時の言葉を思い出し、それが入っているポーチからコンパスを取り出す。コンパスは殆ど丁度右側を指していた。どうやらこの大通りは丁度この街を南北に貫く様に通っている様だ。


「こっちね!」


 そう言ってからコンパスを仕舞い、アイシスがやや早足で歩き出す。それを後ろで見ていたタチバナが少しだけ微笑んだが、仮にアイシスがそれを直視していたとしても彼女はそれに気付く事は無かっただろう。タチバナは実際に感情の変化に乏しかったが、その表情の変化は更に乏しくそれを見分ける事は誰であっても至難の業なのであった。


 胸に膨らむ期待を抑えられずに早足で大通りを行く少女と、その後ろを遅れぬ様に付いて行くメイド。その双方が共に見目麗しい姿となれば、当然道行く人の多くの視線を集めていた。しかし片方はそれに一切気が付かず、もう片方はそれを一切気にしなかった。そうして歩いて行くうちに段々と人通りは疎らになり、やがて出入口らしき所がアイシスの目に入る。


「あら、あそこが出口かしら」


 そう言って更に少し早くなった足取りでアイシスがそこに近付いて行くと、その全容が見えて来る。その出入口の周囲、正確には都市全体が壁で囲まれており、まさに建物の出入り口の様になっていた。こんな壁に囲まれていたのね、と感嘆交じりで口に出しそうになるアイシスだったが直前でそれを呑み込む。どの方向からかは兎も角、当然アイシスも入口からこの都市に入って来た筈であり初見であるかの様な発言はすべきではない。そんな事を言い出せば此処に来るまでの道中の言動にも色々と問題はあった気がしたアイシスだったが、少々違和感がある程度のものと完全にアウトなものは違うし事実タチバナは何も言って来ていない。そう思う事で自身を納得させるのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る