第30部分

 アイシスの目の前には見覚えのある光景が広がる。この世界で目覚めて未だその日の日中であるにもかかわらず、アイシスは既に若干の懐かしさを覚える。此処数年は殆ど病室とそこから見える風景しか見ていなかった少女にとってはこの一日の内容はあまりにも濃密であり、読書を除けばその数年の日々にも値したのだった。その読書も最期の直前には殆ど出来なくなってしまっていたが。


「それでは、私は本日購入した物も含めて荷物を整理致します。お嬢様は楽になさっていて下さい」


 アイシスが前世の事を思い出した事で少しの感傷に浸っていると、タチバナがベッドの上に荷物を広げながらそう言う。アイシスは全ての作業をタチバナに任せるのは少々気が引けたが、自分が加わっても邪魔になるのは明白でありタチバナがそういう事を気にしないという事も既に理解していた。


「ええ、任せたわ。何か用が有るか、事が済んだら呼んで頂戴」


「かしこまりました」


 そうしてタチバナが凄い速さで荷物を整理し始める。それを見たアイシスは、少なくとも感傷に浸っている暇は無さそうだと直ぐに理解する。特に目的も無く部屋を見回して見ると、ちょっとした思い出のある鏡が目に入る。改めて自身の姿を確認してみようと思い、アイシスは鏡の前へと移動した。


 以前の自分よりも高い背にスタイルの良い身体、元の少女の価値観では誰もが美人だと褒めそうな顔立ちに少しウェーブが掛かった金髪のロングヘアー。その上にあるタチバナが付けてくれたリボンは冒険に出るには少々ミスマッチな気もするが、何やら神秘的な加護が有るらしいので問題は無いだろう。服装は元の世界とは異なった様式だが、機能性とデザイン両立した良い物なのだろう。実際に身体を動かす邪魔になった覚えは無かった。年頃には入院着くらいしか着ていなかった少女にとっては少々派手であり、ボディーラインが出ている事と太ももが露出している事が気にならなくはなかったが、鏡の中の自分には良く似合っているとアイシスには思えた。


 そしてその左腰、鏡の中では右腰だが、にはノーラが作ってくれたレイピアとその鞘が差さっている。彼女の多くの作品とは異なりその実直なデザインの他に可愛らしい装飾が随所にあしらわれており、自身の服装にも良く合っている。少女は生前ファッションになど興味が無かったが、少なくとも鏡に映る人物はその服装も含めて十分に魅力的だと感じられた。未だそれを自身だと認識する事には違和感が残っていたが、だからこそ鏡の中の自分に少々見惚れてしまうのだった。


「お嬢様、少々宜しいでしょうか」


 そのタチバナの声によりアイシスは現実へと引き戻される。少々の気恥ずかしさを感じながら振り返ると、先程ベッドの上に所狭しと並べられていた物は殆どが姿を消していた。代わりに二つの大きさの異なる風呂敷包みといくつかの小物がそこには置かれている。


「終わったのかしら?」


 そう尋ねながらアイシスがベッドへと向かう。そうでないなら自身に用がある筈なので呑気に鏡を見続けている場合ではない事はアイシスにも分かっていた。


「概ねは済みました。後は此方の水筒、コンパス、地図等は双方が持っていた方が良い物ですのでお嬢様の身に着けておられるポーチ等にお収め下さい。そして此方の小さい方の包みですが、もし宜しければお嬢様に持っていて頂きたく存じます」


 自分から言い出す前に荷物を分けてくれたのはアイシスにとっては幸運だった。タチバナならば全てを持つと言い出してもおかしくはないと思っていたが、恐らくは常に右手を空けておきたいという事なのだろう。そこでアイシスには一つの疑問が浮かぶ。


「まあ、それは構わないんだけど。そういえば何でこういう包みなのかしら。こう……背負うタイプの鞄にした方が楽だし両手も空いて良いんじゃない?」


 この世界に存在するか不明な名詞を避けてアイシスがタチバナに尋ねる。アイシスは今までその事を気にしてはいなかったが、手を空ける為というならば荷物を背負えば両手共が空く筈である。無論、タチバナがそうしないのだから何か理由があるとは思っているが、その理由は知って置きたかった。


「良い着眼点ですね。考え方は人それぞれであり、確かに背負った方が楽ではあると存じますが、私がそうしないのには明確な理由がございます。それはいざという時に直ぐに身軽になる為に、という事です。急に魔物に襲われた時等、危機的状況に於いて荷物を背負っていては、そのまま対処をするか下ろす時に隙を見せるかの何れかになってしまいます。この様に纏めた物を片手に抱えていれば、それを放る事で迅速に対処が出来るのです。無論、包む段階で地面に放っても基本的には問題が起きぬ様に詰めておりますのでどうぞご心配無く」


 そのタチバナの説明は納得のいくものではあったが、常に有事の事を考えているのはおよそメイドらしくはないなとアイシスは思った。尤もそれは今更の話でもあり、自分達はこれから冒険、文字通り危険を冒しに行くのだから事前に出来る事は何でもして置くのが当然なのだが。


「成程、流石はタチバナね。それじゃあ最後の準備と確認をお願いして良いかしら?」


 無論自分でやっても良かったのだが、アイシスは万全を期す為にもタチバナに確認を頼む。アイシスがこの一日で最も強く感じた事はタチバナへの強い信頼であり、それは乳飲み子が母親に抱くものにさえ近いものだった。


「かしこまりました。それでは失礼致します」


 タチバナがそれに応え、アイシスのポーチの中身を確認しつつ新たな道具を収めていく。その際にはアイシスがその場所を記憶し易い様に「水筒は此方です」と声に出して確認しながら手際良く作業する。その際の、そして今日これまでのアイシスの様子からタチバナは主の自身に対する信頼が急に高まっている事を感じていた。しかしタチバナにはそれに対してどう反応すべきかが分からず、せめてその信頼に応えようと依頼を完璧にこなす事に集中するのだった。

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