第29部分

「あいよ、お粗末様! ありあとやしたー!」


 ともあれ冒険に出る前の腹ごしらえは済み、店主の挨拶に見送られてアイシスとタチバナが屋台の前を去る。これで残る準備は食物を買う事のみで、それも今自分達が居る市場で済ませる事が出来る。そう考えるとアイシスは、いよいよ旅立ちの時が来たという思いに胸の高鳴りが収まらなかった。


「それで食べ物、日持ちする物だったわよね。何を買うのかしら?」


 本人は普通に振舞っているつもりだが、やや高めのテンションでアイシスがタチバナに尋ねる。何年も寝たきりに近い生活をしていた事、そして冒険に出る為の準備であるという事。更にはそれを信頼出来る仲間と共にするという事。それらの理由により、アイシスにとってはただ食べ物を買うという日常でも当たり前の行為が楽し過ぎるとすら感じる事だった。


「……主食である麦の粉と、干し肉を少々、それと調味料を買うだけですよ。冒険では食料もなるべくは現地調達が基本ですので、そこでは入手がし辛い物を予め用意して置くという訳でございます。無論、お嬢様から特別な希望がご要望がございましたらそれも用意致しますが」


 食料も現地調達。タチバナのその言葉からいかにも冒険といった感じを受けたアイシスの興奮は、幼少期を除けば最早その生涯でも初の領域へと達していた。だがあまりはしゃぐのも恥ずかしく、既にノーラの鍛冶屋で一度やらかしているアイシスはそれを可能な限り抑えてタチバナの問いに答える。


「いえ、食料に関してはもう完全に貴方に任せるわ。後ろを付いて行くから好きに動いて頂戴。ああ、はぐれたりはしないから安心して」


「かしこまりました」


 アイシスの言葉にタチバナが即答する。可能な限りは護衛対象であるアイシスには自身の前に居て欲しくはあるが、仮に真後ろに居ても気配を読み違えたりはしないという自信が半分、そう言い切ったアイシスへの信頼が半分での了承である。当初とは違い、既にタチバナにとってアイシスは単なる護衛対象ではなくなってきていた。


 タチバナが後ろに居るアイシスの歩行速度に合わせた上で、今日これまでの一連の流れの中で記憶していた店舗から最も費用対効果の高い店を選んで必要な物を手際良く購入していく。少女はそれを見ながら幼少時に手を引かれて行った買い物で散々悩んで時間を掛けていた母を思い出し、今のタチバナと比較して微笑する。女性は買い物が長い、なんて元の世界では言われていたけど結局は人によるのね。そんな事を考えている間に、両手に荷物を抱えたタチバナがアイシスの前に戻って来る。


「お嬢様、必要な物は全て購入致しました」


 その報告を聞いたアイシスは、いよいよだと弾けてしまいそうな興奮を抑えて可能な限り冷静に問い返す。


「それじゃあ、これにて準備完了という訳かしら?」


「いいえ。確かに必要な物は揃いましたが、中にはお嬢様ご自身がお持ちになるべき物もあり、それらの分配が未だ済んでおりません。何処か、可能ならば屋内で最後の準備を致しましょう」


 タチバナの言葉により自身がやはり冷静になり切れていなかった事を知ったアイシスは冷静さを取り戻し、タチバナだけが多量の荷物を持っている事に今更気が付くのだった。心の中で反省をし、考えを巡らせる。


「私が昨夜泊まった宿、確かロビーにちょっとしたスペースがあったわ。そこを使わせて貰えるか訊いてみましょう」


「かしこまりました。それでは参りましょう」


 本当は荷物の片方を持とうかと訊きたかったアイシスであったが、答えが分かり切っている上に目的の宿屋は此処からそう離れてはいない。それまでの間は悪いけどタチバナに持っていて貰おうという算段で言葉を呑み込む。程なくして二人は宿屋へと辿り着き、玄関の扉を開く。


「いらっしゃいませ! やや、アイシス様ではありませんか。如何なさいましたか?」


 二人が宿屋に入ると、この世界では珍しいとアイシスには感じられる丁寧な口調で店番の男が出迎える。


「ええと、これから冒険に出る為の準備をしたいのだけど、ロビーのスペースを借りられるかしら?」


 アイシスが単刀直入に切り出す。ロイヤルルームに先程まで宿泊していたのだから邪険には扱われないとは思っているが、断られたらという多少の不安はあった。


「冒険に? その、失礼ながらお屋敷にお帰りになられると思っておりましたが……」


「ええ、ちょっとね。それで、借りられるかしら?」


 直ぐに答えは得られなかったが、男の反応は至極尤もであるのでアイシスは特に思う事は無かった。改めて場所を借りられるかを尋ねる。


「失礼致しました! それでは、宜しければお泊りになられた部屋をお使いになりますか? 勿論お代は頂きません」


「良いのかしら? 此方は助かるけれど」


 男の提案は有難いものだったが、アイシスは何だか悪い気がして念を押して確認する。


「ええ。……実はロイヤルルームは滅多に借りるお客様がおられないので、未だアイシス様が発たれてから掃除も致していない始末でして。ですからご遠慮なくお使い下さい。鍵も未だ掛けておりませんので」


「なら有難く使わせて貰うわね。タチバナ、行きましょう」


「かしこまりました」


 そういう事ならば遠慮は要らないと、アイシスが自身にとってはある意味で故郷の様な部屋への帰還を決める。かつて通った場所を逆順で通り、自身がこの世界に訪れた部屋の扉を開く。奇妙な安心感を覚えながらアイシスは扉をくぐるのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る