第10部分

「何か言ったかしら?


 アイシスがタチバナに尋ねる。喧噪に掻き消されない囁きの様な音、普通に考えれば最も近くに居るタチバナの物である可能性が一番高いのは確かである。


「いえ、私は何も。どうかされましたか?」


 だがタチバナの答えは否であった。しかしアイシス自身もタチバナの声だと思って聞いた訳ではなく、あくまで論理的に考えた場合の最も高い可能性を最初に潰したに過ぎない。


「いえ、気のせいだった様ね」


 アイシスがそう答えた直後だった。


「だれ……か……」


 先程よりもはっきりとした声がアイシスの耳に……いや聴覚、或いはそれを自覚する脳に届く。亡くなる前の彼女であれば恐怖を感じるか自身の正気を疑うかという事態であったかもしれないが、既に超常的な現象に遭遇した後のアイシスが冷静さを失う事は無かった。


 アイシスが周囲をぐるりと見渡すが、声の主と思しき人は見当たらない。誰もが歩行していたり連れと会話をしていたりで『誰か』と呼ぶ様な状況にある人物は居なかった。そして同時に、その声を聞いたと思しき反応を見せている者も居ないという事も確認する。タチバナも主の突然の動きに反応して周囲への警戒を強めてはいたが、アイシスと同じ様に声を聞いたのであれば先程の問い掛けに答える際にその旨を申し出ている筈である。


「誰か……居ませんか……」


 更にはっきりとした声を聞いたアイシスがタチバナへと視線を向ける。タチバナはその意図を窺う様に視線を合わせるが、その様子を見てアイシスは確信する。この声は自分にしか聞こえていないという事を。更に向いた方向によって声の聞こえ方が違う事にも気付き、声の主の大体の方向を特定する事に成功する。


 その方向に突如として歩き出したアイシスの後をタチバナが周囲への警戒を緩める事無く付いて行く。タチバナから見ればアイシスの行動は奇行と言っても良い物であったが、その意図を問い質す様な事は使用人の行動として相応しくないというのがタチバナの考えであった。


 声が聞こえる方向へと歩き続けた結果、アイシスの目の前に現れたのは突き当たりにある古ぼけた建物だった。両開きの引き戸は閉じられており、一見しただけでは何の建物なのかアイシスには分からなかった。この建物の前に来た時から声は聞こえていないが、恐らくこの中から聞こえて来たとみて間違い無いだろうとアイシスは思った。


「此処は……」


 その正体を確認する為にアイシスが建物を良く観察しようと近付きながら呟くと、それに続く様に建物に近付いたタチバナがそれに続ける。


「どうやら骨董品等を扱う店の様ですね。お嬢様にはそういった趣味がございましたか」


 自身が調べるまでも無く答えをくれたタチバナに心の中で感謝するアイシスだったが、タチバナの口調がいつも通りの淡々とした物であった為に後半部分は本気で言っているのかどうかは分からなかった。


「そういう訳じゃないわよ。……営業しているのかしら?」


「恐らくは。戸を閉めているのは直射日光や虫等の侵入を防ぐ為でしょう」


 相変わらず自身の疑問に悉く答えをもたらしてくれるタチバナに心の中では頭が上がらないアイシスであったが、立場上それを表に出すのは控えておく事にする。恐らく営業中とはいえ勝手に開けて良い物なのかと悩みながらも目的の為にと引き戸に手を掛け、そして開く。


 扉の先は昼間とは思えぬ程に薄暗く、様々な骨董品やアクセサリー、果ては武器までがそれ程広くない店内に所狭しと並べられていた。カーテンの隙間から僅かに漏れる日光と燭台の光に照らされる見た事も無い様々な物品。仮に此処に亡くなる前に入っていたとしてもきっと「異世界だ」と感じていただろう、そう思いながらアイシスはその光景をぼうっと眺めていた。


「いらっしゃい。悪いけど早く戸を閉めとくれ」


 奥のカウンターから聞こえて来た店主の老婆の声にアイシスが反応するよりも早く、主人が道を空けるのを待っていたタチバナがアイシスの脇をすっと抜けて店内に入り、引き戸を閉める。アイシスはその動きで自分が道を塞いでいた事に気付いたが、鳥串屋でのタチバナの言動を思い出し立場上軽々と謝らない方が良いだろうと黙っている事にする。


「こんな店に若い娘が二人とは珍しいね。ま、ゆっくり見とってくれ」


 老婆の声に会釈で応えるとアイシスは店内を見て回る事にした。だが此処に来た目的はすっかり忘れており、この本人にとっての不思議空間を満喫する為にであった。タチバナはアイシスの目的を測りかねていたが折角なので何かアイシスの護衛の役に立つ物が無いかをアイシスから目を離さない範囲で探す事にする。


「わぁ、これは何に使う物なのかしら」


 そんな感嘆の声を小さく漏らしながら店内を見て回っていたアイシスの視界にぼんやりと光る何かが映る。それを見た瞬間アイシスは此処に来た目的を思い出し、そして直感する。あれがあの声の主であると。

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