第8部分

 眩しい。宿屋の玄関から外に出たアイシスが思ったのはそれだった。降り注ぐ太陽、その光をこうして直に浴びるのはもう何年振りかも分からない位であったから無理もないが。やがて目が慣れて来た頃、アイシスは思わず小さく感嘆の声を上げた。


「わぁ……」


 アイシスの目に映ったのは活気のある大通りの風景だった。両脇には露店が並び、その間を人々が絶えず行き交っている。青空の下にこれ程多くの人々が集っているのをアイシスは生前も見た事が殆ど無かった。


「いらっしゃい! 今日は珍しい東の大陸の物が入って来てるよ!」


「これを三個ですね。330のところですが300におまけしておきますね!」


「薬草を買うならウチが一番、この辺りじゃウチより安いとこは無いよ!」


 賑やかな通りの中で露店の商人の声が一際大きく響いていたが、道行く人々もその多くが何かを話している。その風景と喧噪はアイシスに再び過去の記憶を思い起こさせた。幼少時、近所の縁日に母に連れられて行った思い出を。確か金魚掬いで一匹も捕れずに泣いてしまったっけ、とアイシスは小さく笑った。


「ねえタチバナ、今日は何かの祭りでもしているのかしら」


 その記憶と紐づけて思わず横に居るタチバナに声を掛けるアイシス。それを聞いたタチバナはその淡々とした声を喧噪に掻き消されない様にアイシスに少し近付いてから答える。


「いえ、特にそういった話は無かったと思われます。恐らく普段からこの様な状態なのでしょう。此処は西の大陸の中でも有数の都市ですので」


 尋ねた事に加えて更なる情報をタチバナが答え、外に出てから既に見聞きした事も合わせて新たな情報をいくつも入手したアイシス。いつもの通り頭の中でそれを整理しようとするが、自身のすぐ傍に家族以外の人間、しかも同年代の美人が居るという状況に動悸がし始めた為にそれは上手く行かなかった。


「お嬢様、どうかなさいましたか」


 頬を紅潮させて黙っているアイシスにタチバナが声を掛ける。先程から距離が変わっておらず、変に意識した事で髪の毛の匂いまで気になって来てしまっているアイシスには最早正常な思考は難しくなっていた。落ち着くのよアイシス、と心の中で何度も唱える事でなんとか平静を取り戻す。


「いえ、何でもないわ。少し見て回ってみましょう」


 出会って数分でありながら既にタチバナを姉の様に信頼しているアイシスだが、平静を保つという目的の為にそう言って歩き出す事で彼我の距離を離す。内心は兎も角その動作自体には何の不自然さも無かった為、タチバナは『承知致しました』といつもの様に返事して後に続くのだった。


 生涯の殆どを病室で過ごした少女にとってこの様な活気のある市場は興味の対象で溢れていた。本人はアイシスらしさの為に興味を抑えて控え目に市場を回っているつもりなのだが、実際にはふらふらと子供の様に目移りしながら歩き回っていた。その後に続くタチバナは自身のみならずアイシスへのスリ等を警戒しつつ主人の後を付いて行くのだった。アイシスにとって幸運だったのは元々のアイシスも奔放に振る舞うタイプであった為、これらの行為はタチバナの目にそれ程不自然には映らなかったという事である。


「お、そこの別嬪のお二人さん! 鳥串は如何かな?」


 そうして通りをふらふらと回っている内にとある露店の商人がアイシス達に声を掛ける。アイシスは当初はその声が自分への物だとは思わなかったが、周囲を見渡して自分達の事だと理解する。そして言われてみれば目覚めてから何も食べていないという事を思い出すと空腹感を覚えるのだった。


「そう……ね、二本頂けるかしら」


 思わず丁寧語で答えてしまいそうになるのを堪えてアイシスが答える。鳥串という料理は聞いた事が無かったが名前と目の前の露店の様子からその内容は簡単に予想する事が出来た。アイシスは未だに自身の持ち合わせすら知らないままであったが、勇者パーティでの役目等を考えれば流石にこれを買えないという事はないだろうという判断である。


「はいよ、ちょっと待っててくんな!」


 店主はそう威勢良く答えると鳥の肉が刺さった串を二本手に取り、炭火の上で焼き始めた。アイシスは恐らく冷蔵庫の類の無いこの世界で衛生的に大丈夫なのかと少々心配になるが、こうして営業をしているという事は大丈夫なのだろうと思う事にした。


 鳥串が焼き上がるまでの間、アイシスは先ずは自身の持ち合わせの確認をする事にする。腰に巻かれたポーチの様な物。簡単な釦で留められたそれを開けるとそこには何枚かの金貨が無造作に入れられていた。この世界の通貨事情を未だ知らないアイシスにもこの買い物に対して不足している事はないだろうという事は容易に想像出来た。


「へいお待ち! 二本で200になりやす!」


 先程も思ったがこの世界は通貨の単位は無いのだろうか、そう思いながらアイシスが金貨を取り出そうとするとタチバナがすっと店主の前に行き青銅らしき貨幣で支払いを済ませる。その様子を見たアイシスは即座にこの金貨はこの様な買い物には向かないのだと察する事が出来た。


「へい、ありやとやす!」


 そう言った店主が二本の鳥串を何らかの大きな葉に乗せて差し出す。衛生的に大丈夫なのかと再び思ったが、やはり再び同様の理由でその不安を飲み込む事にしたアイシスがそれを受け取ったその時だった。


「失礼致します」


 そう言ったタチバナが鳥串の片方を手に取り、一切れ目を口にする。あまりにも意外な行動に呆けるアイシスを横目にタチバナは無表情のまま鳥串を頬張るのであった。

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