第7部分

「はい。梳かすのはこれ位で良いでしょう。仕上げに……」


 タチバナがそう言って自身の頭に何やら付けようとしているのをアイシスは目を瞑ったまま感じていた。その様子が気にならない事はなかったが、以前母にして貰っていた時の様に相手に全てを任せる事で信頼を示しているのだった。タチバナの言動は一見すると不愛想にも見えるが、アイシスはその言動や髪を梳かす手付き等から優しさを感じ取り、出会って精々数分でありながらも既に十分に信頼に値する相手だと思っていた。


「これで良いでしょう。では目をお開け下さい、お嬢様」


 そのタチバナの言葉に応じてアイシスが開いた目に入ったのは鏡に映った自身の姿であり、その頭部には白い大きなリボンが付いていた。あら可愛い、とアイシスは思ったが、自身の持つ元のアイシスのイメージにはやや合わない気もした。


「……これは?」


 普段から着用していたという可能性も有ったが、一人では付けるがやや大変という事と自身の持つイメージを根拠にアイシスは意図を尋ねる。もしこれが初めての着用であった場合に無反応であるのは不自然過ぎる故の小さな賭けという訳である。


「こちらのリボンは一見すると普通のリボンですが、着用している者に神秘的な加護を与えるという効果が有るのです。お嬢様のイメージには少々合わないかとも思いましたが、本日は色々と転機になる事もありましたので心機一転とでも言いましょうか。……無論、お気に召されなかったのであれば直ぐにお外ししますが」


 アイシスは自身の予想が当たっていた事に安堵しつつ、タチバナの気遣いに信頼を更に篤くする。実際は転機どころか中身からして変わってしまっているのだが、それもあってアイシスはこのリボンを甚く気に入ったのだった。


「いえ、とても気に入ったわ。今日からはこのリボンと共に新生アイシス・ハシュヴァルドと言った所ね。貴方の気遣いにも感謝をしておくわ」


 椅子から立ち上がり、知られたくはない筈の真実を大胆に織り交ぜつつ高らかに宣言をするアイシス。その言葉を聞いたタチバナが一つ咳払いをした後に一言だけ呟く。


「……勿体ないお言葉です」


 それを聞いたアイシスは微笑みを浮かべて鏡に映る自身の全身像を改めて眺める。以前の自身とは全くもって違う姿。ベッドの上で物語を読んでは憧れた、元気で活発で可愛い少女が頭に白く大きなリボンを付け、ウェーブがかかった金髪を揺らしながら立っている。その服装も生前の自身が病院で着ていた服とは全く違っており動き易さとデザインを両立している可愛い物である。何の奇跡か悪戯かは分からないが、誰もが望む第二の人生を手に入れてしまったからには十分に謳歌させて貰おう。そう決意したアイシスは鏡に背を向け玄関へと歩き出す。


「行くわよ、タチバナ。付いて来なさい」


 その言葉は最早演技ではなく、現状を受け入れた少女の心のままを紡いだものであった。


「御意のままに、お嬢様」


 そう答えるタチバナの声は相変わらず淡々としたものであったが、アイシスには最初よりもほんの少しだけ気持ちが入っている様に聞こえていた。


 アイシスが本日三度目となる玄関の扉を開ける。前の二度はそこに立っていた人物の方に注目していた為に認識していなかった景色がそこにはあった。玄関から真っ直ぐに伸びた廊下の脇には客室に繋がる扉が並び、廊下の先には下りの階段の入口が見える。この世界の住民には何でもない景色であろうが、少女が元居た処とは建物の意匠も随分と異なっておりアイシスには新鮮な景色であった。


 とはいえここでいちいち感心していては不自然に思われてしまうだろう、と歩みを止めずに進むアイシス。その後ろではタチバナが素知らぬ風で、だが実際には周囲に注意を巡らせながら後に続いていた。貴族の当主から娘の安全を託される使用人。こうして常に周囲を警戒しながら歩くという事は彼女にとっては既に他の人物にとっての通常の歩行の様に当たり前の事であった。


 アイシスが階段を下るとカウンターの向こうから店主らしき店番の男が声を掛けて来る。


「アイシス様、おはようございます! ロイヤルルームの寝心地は如何でしたか?」


 その言動からアイシスはやはり此処が宿屋の類であった事と自身の居た部屋が特別な物だった事を知る。恐らくだがそこにアイシスのみで泊まった事も勇者ライトが言っていた我儘の一つなのだろう、と思いながらアイシスが答える。


「まあまあね。値段相応、と言った所かしら」


 実際には生前の自身は泊まった事のない様な部屋であったが、アイシスらしさを忘れずに答える。現状を受け入れてアイシスとして生きると決めたとは言え、昨日以前の事については本心では答え様が無かった。


「ありがとうございます! 今後も精進して行きますので是非また御贔屓に!」


 そう言って深々と頭を下げる男を横目に入口まで歩いて行く二人の少女。現在の持ち合わせどころかこの世界の通貨事情すら知らないアイシスはどうやら先払いであった事に安堵しつつ初めての屋外へと歩みを進めるのであった。

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