第5部分

 そう啖呵を切ったアイシスが冷静さを取り戻し、頬を少し赤く染めて椅子に再び座るとそれを待っていたかの様にタチバナが答える。


「承知致しました。ですが私が旦那様に伝えに行ってしまってはお嬢様が危険です。人を遣って伝える事にしましょう」


 その意外な申し出にアイシスはタチバナを抱き締めたい位であったが、元のアイシスを演じなければならない都合上そうはいかなかった。だからといって自身の気持ちを常に偽っていては折角新たな生を手に入れた意味は無い。如何に自身の気持ちをアイシスらしく表現するか、それを考れば此処で会話を途切れさせる訳にはいかなかった。


「あら、それではお父様の命令に背く事になるんじゃなくて? 命令違反を犯した使用人を許すハシュヴァルド家なのかしら?」


 共に行動する仲間が出来るという事は右も左も分からない世界に来たばかりのアイシスにとっては心底有難い事ではあったが、その為に他人の立場が危うくなるというのは彼女の本意ではない。一見嫌味に聞こえるこの言葉もタチバナの身を心から案じた物である。


「いえ、ご命令はお嬢様を安全に屋敷までお連れしろというもの。その為にはお嬢様にご自身の意思で協力して頂く必要がございますので。それまでの間はお嬢様のお近くでお守りさせて頂く事こそがご命令の遂行に必要な事だと存じ上げます」


「貴方、男前ね」


 タチバナの言葉を聞いたアイシスが思わず心の中で思った事をそのまま口走ってしまう。少々無理のある言い訳をしてまで自身の為に実質的な命令違反をしてくれる目の前の女性に対する誉め言葉を。しかしその直後には言葉の選択を誤ったのではないかと後悔していた。改めて確認するまでもなくタチバナは女性であるからだ。


「……それはお褒め頂けているという事で宜しいのでしょうか」


 少々の沈黙を経てタチバナが相変わらず無表情で発言する。このように尋ねている時点で言葉の選択を誤ったのは確かではあるのだが、既にアイシスには押し通す事しか出来なかった。


「……当然じゃない」


「……そうでしたか。ありがとうございます」


 ややぎこちない一連のやり取りにアイシスは微かな違和感を覚えたが、現時点ではそれが何を意味するかは分からなかった。ともあれこれにて少なくとも孤独な生活を送る事も見知らぬ家族と過ごす事も無くなったアイシスはほっと一つ息を吐く。


 そうして不安が解消された事で心に少し余裕が出来たアイシスはこれからの事について考えようとするが、その前にある事が気になって来る。この一見すると職務に忠実そうなメイドが主の命令に背いてまで自身、というより元のアイシスに協力する理由だ。


 最初に考えたのはタチバナがアイシスに個人的に何らかの感情を持っているのではという事だった。少なくとも歳が離れた主よりは歳も近い同性のアイシスに共感を持ちやすいのは確かだろうが、断片的な情報からの推測とはいえ元のアイシスはあまり人に好かれる性格では無かった様に思える。そうなると別の理由があると思えた。そしてふとアイシスに一つの考えが浮かぶ。


「貴方、もしかしてこれで自分も面倒な職務から解放される、みたいな事を考えているのではないかしら」


 自身が得たタチバナの第一印象からは考えられない様な理由だが、アイシスにはそれを確かめずには居られなかった。


「……いえ、決してその様な事はございません」


 相変わらず無表情で淡々と答えるタチバナであったが、その僅かな間をアイシスは見逃さなかった。そして先程の違和感の答えも手にしたとアイシスは感じた。確かにこのタチバナというメイドは表情も変えないし口調も常に淡々としているが、その実内面は実に人間らしいというべきか普通に一人の少女であるのだと。そう思うとアイシスはこのタチバナに一気に親しみを抱くのだった。


「……どうかされましたか、お嬢様」


 相変わらずの無表情ではあるがタチバナがアイシスの何かを案じる様な言葉を掛ける。アイシスには何の事だか分からなかったが、自身がにやけている事に直ぐに気付く。やや年上であるが、同世代の少女とこうして話す事自体がアイシスにとってはとても新鮮な体験でありとても楽しい事であった。そして目の前の少女の態度と内面のギャップがとても愛おしく思えた故の表情の緩みであった。


「何でもないわ、気にしないで」


 そうアイシスらしく答えたつもりの少女であったが、その表情は未だ笑顔のままである。そんなアイシスを見つめるタチバナは無表情のままでありアイシスにはその内面を察する事は出来なかったが、これから一緒に過ごしてもっと仲良くなる事が出来たら分かるようになれるかなという期待を胸に秘めるのだった。

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