第2部分

 どうしよう。突然の来客という予想だにしない事態に少女は固まってしまう。この身体の元の持ち主の事など何も知らない自分では対応するのは難しく、そもそも言語が通じるという保証も無い。外国語を覚える要領で時間を掛ければ理解する事が出来るかもしれないが、翻訳の出来る辞書等が無ければそれも難しい。そのような不安が少女の頭の中を駆け巡り、ノックに応える勇気を出せずに居ると再び扉が叩かれる。


「アイシス、起きているかい?」


 ノックの直後に扉の外から聞こえて来た若い男の声。たった一言ではあったが、その声からは少女が知りたい情報を複数得る事が出来た。言語は生前の自身が用いていた物と同じである、もしくは同様に理解出来る物という事。そしてこの身体の持ち主の名はアイシスだという事。或いはニックネームの類であるという可能性も否定出来ないが、ともあれ自身の呼び名さえ知らないという状態からは抜け出せた事になる。特に言語が通じるという事は非常に大きく、最低限のコミュニケーションは成り立つだろうという予測は少女に安心感を与えた。そしてそれはノックに応える勇気をも生じさせた。


「ええ、少し待ってくれるかしら」


 とはいえ自身の知らぬ世界、自身の知らぬ相手との邂逅である。覚悟を決める為に深呼吸を二つして少女――この世界での名はアイシス――は扉へと歩を進める。扉の前に立って再び大きく息を吸い込み、意を決して扉のノブに手を掛ける。しかし扉は押しても引いても開かず、どうしたのかとノブの付近を良く見ると鍵が掛かったままであった。少女は誰も見ていないとはいえ少々恥ずかしく思ったが、その体験は自身の気をいくらか楽にさせた。


 改めて鍵を開け、扉を開ける。そこには背の丈は少女の元暮らしていた国の平均身長よりもやや高い位、ややがっしりとした身体付きをした青年が立っていた。黒髪に整った顔立ちは所謂イケメンと言った風で、服装は以前に読んだファンタジー物の主人公の挿絵そのものと言った風貌である。


「やあ、おはようアイシス……ってすまない、未だ着替えていなかったんだね!」


 そう言いながら青年は目を背ける。言われてみればネグリジェのままだったと気付いたアイシスは慌てて扉を閉める。最近では殆ど着替えるという事をしていなかった少女は既にその習慣を忘れてしまっていたようだ。部屋の隅でハンガーに掛かっている衣服に急いでと着替える。生前の世界の物とは少々様式が異なってはいたが、その形状から着用の仕方は何となく予想出来た為にそう苦労せずに着替えを終える事が出来た。鏡を見てみるがその風貌は少なくとも以前の世界での価値観で言えば美少女そのものであった。服装も間違った着方をしている物は無い様に見える。これならば問題は無いだろうと思い、アイシスが再び扉を開く。


「おはようございます」


 アイシスが今度は自分から挨拶をする。先程はちょっとしたハプニングによって挨拶を返しそびれてしまったが、それは失礼に当たるというのが生前からの価値観だった。しかしそれを聞いた青年は何か意外そうな表情を浮かべている。何か不味い事でも言ったのかしら、とアイシスが考えた時、青年が再び言葉を発する。


「ああ、うん、おはよう。……今日はいつもより何というか、静かなんだね。もしかして彼女達の話を聞いてしまったのかな」


 青年の言葉から新たな情報を得た少女は頭の中でそれらを整理していく。自身としては普通に挨拶をしたつもりであるのに意外そうに静かだと言われたという事は、このアイシスという少女は元々はもっと活発であったという事。そしてこの青年を除いて少なくとも二人、女性の関係者が居るという事。それだけでは特に活かせそうもない情報ではあるが、本当に何も知らない少女にとってはそれでも貴重な物であった。


 しかし当然の話だが『彼女達』の話等は聞いていないので何の事だかアイシスには分からない。そして部屋に特に変わった様子が無く本人も普通にベッドで眠っていたという事から元のアイシスも聞いてはいないのだろうと考えられた。活発な少女が突然静かになってしまう様な話は良い話ではないだろうとも。


「いえ、何の話だか皆目見当も付きませんわね」


 青年の疑念を晴らすべく、活発に聞こえる様にやや大げさにアイシスが答える。それは本心からの言葉でもあり、恐らくは元々の持ち主も似たような事を言うだろうという予測による物でもあった。


「そうか……。でもこうして朝から部屋を訪ねたのはその彼女達の話に関係する事なんだ」


 青年が言葉を選んでいるのか、やや言いづらそうに言葉を紡ぐ。あまり良い話ではないという事はアイシスにも察する事が出来た。


「……立ち話も何ですから、良ければ部屋へ上がりませんか?」


 本来であれば少女は男性を部屋に上げるという事などするタイプではなかったが、様子から察するにいきなり襲われるという事は無いだろうという予想からの言葉である。貞操観念の事を抜きにすれば部屋の前で立ち話をさせるという事はアイシスにとって好ましい事ではなかった。


「ありがとう、でも此処で良い。……単刀直入に言おう。アイシス、君にこの勇者ライトのパーティを抜けて欲しいんだ」

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