秘密の庭
(どうしてこんなことに……)
結婚式を終え、新居となる部屋のベッドの上でぐったりと倒れ込んだローニャはこのひと月の喧騒を思い返していた。優秀賞を獲っただけでも一大事なのに、王子であるヴィルヘルムにプロポーズされてあっという間に婚約、結婚してしまった。まさに嵐のような日々だった。
『君は身寄りがないと聞く。私と結婚すれば生活の心配をすることなく絵描きに没頭できるぞ』
それはとても有難いことだ。食い扶持を減らして画材を買わなくて済むし、今まで働いていた時間も全て絵を描く時間に充てて良いとヴィルヘルムは言う。
(でも、そんなに都合のいい事があるのかしら)
あまりに恵まれた環境であり上手すぎる話だ。渋るローニャにヴィルヘルムはもう一つ言葉を付け足した。
『手が空いている時ならば私をモデルにしても構わない』
それが決め手だった。金や生活の保障では動かなかった心が微かに揺れたのは、一生で一度出会えるか分からない「最高の題材」を好きなだけ描けると約束してくれたからだ。
身辺整理をするためにパン屋の女将に話をしにいった際に「驚いたけど、あんたらしいね」と言われたほど、ローニャはヴィルヘルムが考えている以上に絵描き中毒なのだった。
「疲れただろう」
挨拶周りを終えたヴィルヘルムが部屋へ帰って来た。
「はい。少々。こういった行事は初めてだったので」
城へ引っ越してから結婚式までの間、教師を招いて粗相が無いようにと行儀作法を叩きこまれた。学んだと言っても付け焼刃に等しく、各国の王族や貴族ばかりが出席した結婚式を乗り切るだけでもローニャにとっては綱渡りをしているような緊張の連続だったのだ。
「すまないな。こちらの都合で急に式を挙げることになって。本来ならばもう少しローニャに負担のかからないよう配慮すべきなのだが」
「いえ、事情が事情です。お気になさらないでください」
結婚の話が持ち上がった頃、先代の国王であるヴィルヘルムの祖父が倒れた。医師に診せたところあまり具合が良くないらしく、結婚の話を聞いた祖父の要望で急遽式を挙げることになったのだ。
「祖父も喜んでいたよ。ありがとう」
ヴィルヘルムはそう言うとローニャの額に唇を落とす。
「ひゃっ……」
驚いたローニャが身を捩るとヴィルヘルムはその身を逃さんと抱き寄せた。
「ローニャのドレス姿も美しかったぞ」
「殿下こそ、良くお似合いでした」
「描きたいか?」
「え?」
思わぬ一言にローニャはまじまじとヴィルヘルムの顔を見つめる。ドキドキしていた気持ちがさらに燃え上がりドッドッドッと動悸が激しくなるのが分かる。
「よ、宜しいのですか?」
「構わん。その代わり、その『殿下』という呼び方は止めろ」
「では、なんとお呼びすれば」
「好きに呼べ。私は夫でローニャは妻なのだ。他人行儀な態度は止せ」
「……はい。では、ヴィル様と」
「ヴィル様」という言葉を聞いたヴィルヘルムは嬉しそうにニヤリと笑う。そして腕の中でソワソワしているローニャを放すと椅子を引き寄せてそこに腰を掛けた。
「好きに描くと良い」
(ああ、なんて美しいの……)
窓から差し込んだ光がヴィルヘルムを照らす。真っ白な婚礼衣装が光に反射してきらきらと光り、まるで空から舞い降りた男神のような神々しさすら感じた。
鳥肌が立つのを押さえて画材を取りに向かう。マナーレッスンに時間を取られて最近は絵を描けていなかったが、画材は全て部屋の隅に運び入れておいたのだ。
「そう言えば、ローニャに贈り物があるんだ」
画材を漁っているローニャの後ろ姿を見たヴィルヘルムが思い出したように言う。
「着いて来てくれ。見せたい物がある」
ヴィルヘルムに着いて王城の裏庭をしばらく進むと小さな門が現れた。立派な城に似つかわしくない石を積んで作られた小さな門だ。ヴィルヘルムは懐から古びた鍵を取り出すと門の錠前に差し込んでくるりと回した。
「祖母の秘密の庭なんだ」
門を潜るとその先は森だ。門から奥へ続く小道に沿って森を少し進むと開けた場所に出た。
「……素敵」
小さいながらも手入れされた庭園、その先には小さな石造りの家が見える。庭園には川の流れを取り込んだ池がいくつかあり、清らかな水の中に水草や魚が揺れていた。
庭園は庭木で囲まれており、四季折々の花を楽しめるという。ヴィルヘルムの祖母が趣味で作ったという「秘密の庭」をローニャは気に入ったようだった。
「庭だけじゃない。もっと良い物があるぞ」
ヴィルヘルムは石造りの小さな家のドアを開けてローニャを中に招き入れる。
「あっ」
ドアが開いた瞬間、嗅ぎ慣れた匂いが流れ込んできてローニャは思わず足を止めた。
(絵具の匂い)
自宅で良く嗅いだあの匂いだ。
「驚くのはまだ早いぞ」
ヴィルヘルムはそう言ってカーテンを開ける。暗い室内に明るい陽射しが入り込みその眩しさにローニャは目を細めたが、やがて目が慣れてくると目の前に広がる夢のような光景に言葉を失った。
小さな家の中には画材が詰まった大きな棚があり、壁には庭の情景を描いた美しい画が飾られていた。町の画材屋など足元にも及ばない程様々な絵具や筆、紙が収納されている棚にローニャの目は釘付けだ。
「これは一体……」
「祖母の遺品だ。この家も庭も絵を描くために作った物なのだ」
新品ではない、使い古された筆。最後まで使おうと潰された絵具のチューブ。壁に立てかけられた古いイーゼル。
(ああ、ヴィル様のおばあ様は本当に絵を描くのが好きだったのね)
棚にしまわれた描きかけのスケッチを眺めながらローニャは微笑む。見かけだけではない。ここで確かに絵を描いている人が居たのだとはっきりと分かった。
「気に入ったか?」
「……はい。ヴィル様のおばあ様はとても絵を描くのがお好きだったのですね」
「ああ。見るのも描くのも好きな人だった」
ヴィルヘルムはそう言うと手に持っていた鍵の束をローニャの手に握らせた。
「この家も庭も、ローニャに贈ろう」
「え?」
手に握った鍵束をぽかんとした表情で眺めているローニャにヴィルヘルムは弁明する。
「うちの親族はこの庭の価値が分からん連中ばかりだからな。祖母が亡くなった際に潰してしまおうという話さえ出て、そんなことはさせまいと正しく使ってくれる人間を探していたのだ」
「もしかして、それで私を妻に選んだのですか?」
「……まぁ、それもある」
「なるほど」
「怒らないのか?」
「むしろ納得できました。何故平民である私を妻に娶ったのか不思議でしたから」
出来過ぎた話だと思っていた。身寄りもない平民の田舎娘が王子に見初められて嫁ぐなんておとぎ話でしか聞いたことがなかったからだ。
「勿論、ローニャを妻にしたのはそれだけが理由ではないぞ。ローニャの絵に感銘を受け、君の才能をそのままにしておくのはあまりに勿体ないと思った。それは本当だ」
「はい」
「私の見目に流されない所も面白いと思った」
「面白い……ですか?」
「ああ。君は私を色恋の対象として見ていないだろう」
そう言えばそんな話をしていた。ローニャはあくまでも絵の題材としてヴィルヘルムを見ており、それをヴィルヘルムは気に入ったと。
「そう言う所も含めて君に興味がある」
ヴィルヘルムは椅子に積もった埃を払うと日当たりの良い場所に置いて腰を掛けた。
「さあ、好きに描くと良い」
「ここにある画材を使っても宜しいのでしょうか」
「勿論。ここにあるものは全て君の物だ」
「……ありがとうございます」
その時のローニャの笑顔をヴィルヘルムは後にこう語る。「今までで一番良い笑顔だった」と。
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