毎日の楽しみ
ローニャはその日以来「秘密の庭」に籠るようになった。教養やマナー、ダンスのレッスンが終わると足早に裏庭へ消えていく。その姿を見た一部の者たちは「まるでネズミのようだ」と陰口を叩き、「子鼠嬢」などと不名誉なあだ名も賜った。
しかし珍しい画材で埋め尽くされた夢のような家を手に入れたローニャにとってはそんなことはどうでも良かった。自分の稼ぎでは一生かかっても手に入れられないような高価な画材から庶民の店でも売っているような身近な画材まで、先代王妃の遺した家には何でもあった。家の中に立っているだけでも幸せを感じる。至福の空間だ。
「焼き菓子を持ってきたぞ」
ヴィルヘルムはそんなローニャに何も言わない。「もっと社交の場に出ろ」とか「絵ばかり描いていないで勉強をしろ」とか口うるさいことは一切言わずに、昼時に昼食を持って秘密の庭を訪れてローニャに息抜きをするよう言うくらいだ。
「ありがとうございます」
「今日は何を描いているんだ?」
「義姉様の絵です」
ローニャはそう言うとスケッチブックに描かれた女性の絵を見せる。
「午前の講義で義姉様がダンスの見本を見せて下さって、そのお姿が美しかったので」
スケッチブックにはダンスを踊っているヴィルヘルムの姉、エリーゼの姿が描かれていた。翻ったスカートの裾にしなやかに伸びる体の曲線が下書きと思われる薄い線で描かれている。
(柔らかい絵だ)
とヴィルヘルムは思った。城の廊下に飾られているきっちりと固められた絵とは違う。女性特有のしなやかさや柔らかさが絵の中に見て取れる。
「これは色を着けるのか?」
「はい。そのつもりです。使ったことのない色を試してみたいと思っていて……」
棚の中に山ほどある絵の具を見てローニャは言う。ローニャにとっては見たことも聞いたこともないような色が沢山あるのだ。それを毎日一色か二色ずつ試すのが楽しみになっていた。
「そうか。では色が着いたら教えてくれ。姉上にも見せたいからな」
ヴィルヘルムの言葉にローニャは恥ずかしそうに頷いた。いつもこうだ。ローニャが絵を描き上げると、それが例え落書きのような物であってもヴィルヘルムは嬉々として家族や家臣に見せて回った。
初めは気恥ずかしさから「止めてくれ」と何度も懇願したが、一向に止める様子が無いので諦めたのだ。
「ローニャの絵は素晴らしいからもっと色々な人に見せるべきだ」
「それは独り占めして良い物ではない」とヴィルヘルムは言う。しかし、本当に自分の描いた絵がそんなに崇高な物なのかとローニャは不思議に思うのだった。
「今日はこの絵の具を使ってみようと思います」
傍らに置いてある二本の絵具を手に取って見せる。一本目は「夜の光」、二本目は「日向ぼっこ」という手描きのラベルが貼られている。
「見たことのないラベルなので気になって……」
「ああ、それは祖母が作った絵の具だな」
「作った?」
「手作りという意味だ。好きが高じて絵の具を自作していたんだ。石や顔料を砕いて何やら楽しそうに作っていた記憶がある。手描きのラベルは大体そうだろう」
「まぁ、そうだったのですね。おばあ様手作りの……」
日に焼けたラベルはそれが屋外で使われていたことを示唆する。自分で作った絵の具を携えて屋外に写生へ出る。「なんて羨ましい」とローニャは顔も知らぬ義祖母の生活に思いを馳せた。
「おばあ様とは一度お話してみたかったです」
「きっと話が合っただろうな。残念だ」
先代王妃が亡くなったのはそう昔の話ではない。だからこそ余計にローニャを紹介できなかったことが残念に思えた。
「さて、その絵の具はどのような色なんだ?」
「パレットに出してみましょう」
描きあがった線画を机の上に置き、パレットと水の入った小さな容器を準備する。まずは「夜の光」というラベルの絵の具から試してみることにした。
長い間使用していないので硬くなってしまった蓋を開け、少しだけパレットの上に絞り出す。
「きらきらしていて綺麗」
キラリと光ったのは絵の具に混ぜてある金色の粒だ。「夜の光」の正体は赤みがかった紫色に金色の粒子を混ぜた絵の具だったのだ。
絵具を硬めに溶いて試しに紙に塗ってみる。夕日が沈んだ直後の様な紫色の絵の具から細かい金色の粒が顔を出す。水分を多めに含ませても不思議とこぼれ落ちることが無く、金の粒は色を落とした場所に留まり続けていた。
「不思議です。糊でも混ぜてあるのでしょうか」
「確か砕いた鉱物を糊のような物で溶いて混ぜていたような気がするな。原料も探せばあるはずだ」
ローニャはぐるりと部屋を見回す。部屋のあちらこちらに物が積まれているので今すぐに探すのは難しそうだ。
「そっちの『日向ぼっこ』はどうなんだ?」
「試してみましょう」
次は「日向ぼっこ」というラベルの絵の具をパレットに出す。黄色味の強いオレンジ色の絵の具だ。固く水で溶いてから紙に滑らせるとそのままの色だが、緩く溶いてから紙に乗せると不思議と色が分離する。
すっと筆を滑らせると最初はオレンジ色だった色が黄色に変化し、オレンジと黄色のグラデーションになるのだ。
「これまた面白い絵の具ですね。どういう原理なのでしょうか」
「祖母は研究熱心だったからな。思いもよらない物を作る」
不思議な絵の具を前にローニャとヴィルヘルムは顔を見合わせた。
「毎日試すのが一層楽しみになりました」
ローニャはそう言うと棚の中で山積みになっている無数の絵の具たちを見つめたのだった。
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