第56話

 あまりに予想外の出来事に冬葉は何度も瞬きをして少女を確認する。しかし間違いない。そこにいるのは蓮華だ。彼女は笑みを浮かべながら「おーい、冬葉さん」と首を傾げた。


「ここ、座ってもいいかな?」

「あ、はい。もちろん」

「ありがとう。お腹減っちゃったな」


 言いながら彼女はごく自然にメニューを開く。そして「メニューもお洒落だ」と呟いた。


「あの、蓮華さん?」

「んー?」

「どうしてここに?」


 すると彼女はメニューから顔を上げて微笑んだ。


「ここに冬葉さんがいるよって教えてもらったから」

「教えて……?」

「うん」

「えっと、誰にですか?」

「藍沢さん」

「え――」


 蓮華はメニューから顔を上げると「さっき偶然会ったんだよね。駅前で」と微笑んだ。


「声を掛けられたんだけど、わたしは藍沢さんの顔見たことなかったからさ。びっくりしちゃった」

「あ、そっか。二人は実際に会ったことはなかったんでしたっけ」

「うん。でも藍沢さんはわたしの顔を知ってくれてたみたい。それで、冬葉さんと食事する約束だったんだけど行けそうにないから代わりに行ってほしいって」

「え?」

「でも約束してるのは藍沢さんでしょ? だから断ったんだけど自分が行くよりもきっと喜ぶからって……」


 彼女はそう言うと複雑そうな表情を浮かべた。


「藍沢さんと何かあったの?」

「……そうですね」


 冬葉は蓮華を見つめながら微笑む。


「あった、かもしれません」


 蓮華は何かを探るように冬葉を見ていたが、やがて「そっか」と息を吐くように笑った。そして再びメニューに視線を向ける。


「聞かないんですか? 藍沢さんと何があったのか」

「うん。聞かない。冬葉さんが悲しそうじゃないから、それでいいよ」


 蓮華は言いながら真剣にメニューに悩み始めた。


「冬葉さんはもう頼んだ?」

「いえ、まだドリンクしか」

「ここって何が美味しいのかな」

「この時間帯は初めてなのでわからないですけど、ランチタイムのメニューはどれも美味しいって藍沢さんが言ってました」

「そっか。んー、困った」


 彼女は少し眉を寄せながらメニューを見つめている。しばらくその様子を眺めてから冬葉は思わず笑ってしまう。それに気づいたのだろう。蓮華は「ん、なに?」と不思議そうに冬葉に視線を向けた。


「いえ。蓮華さんがそんなに迷うなんて意外だったから」

「そうかな。まあ、普段は目に付いたものでいいやって決めちゃうからね」

「そうなんですか。じゃあ、今日は?」

「今日は特別」


 蓮華は言うと笑みを浮かべた。


「さっきね、藍沢さんに言われたんだよね。後輩が責任者やってるからしっかり料理の味をレポートしてくれって」

「え、レポート?」

「うん。今度会ったら教えてって言われちゃった」

「そうですか。ナツミさんが」

「そう。だからちゃんと自分が美味しそうだなって思った料理にしようと思って」

「へえ。もしかして、けっこうお話されたんですか?」


 冬葉が聞くと彼女は「んー、うん。そうだね」と頷いた。そして再びメニューに視線を向けながら「嫌われてると思ってたのに」と呟くように続けた。


 ――だから、わたしは蒼井蓮華が嫌い。


 そんな藍沢の言葉を冬葉はたしかに聞いた。その気持ちが本当だったのか、それとも複雑な感情が絡み合ったが故の気持ちだったのか冬葉にはわからない。


 ――でも、きっと今のナツミさんは蓮華さんのこと嫌いじゃない。


 そう思う。だって嫌いだったらまた会おうなんて言うはずがない。会話なんてするはずがない。いや、そもそも声を掛けたりもしなかっただろう。


「冬葉さん?」

「――メニュー、わたしにも見せてくれますか?」

「あ! そうだよね。ごめん! ほんとごめん!」


 ハッとしたように蓮華は慌ててメニューを冬葉にも見える位置に置いた。冬葉は笑いながら彼女と顔を寄せ合い、相談しながら注文を決めた。


「ところで蓮華さん」


 注文を終えて冬葉は蓮華の隣に視線を向ける。


「それってギターですよね? どこかで弾いてきたんですか?」

「あー、ううん。リペアに出してたのを引き取ってきたんだけど」

「りぺあ?」

「修理というかメンテナンスというか」

「壊れちゃったんですか」

「ううん。そうじゃないけど、ずっと放置してたから一度ちゃんと綺麗にしてもらおうと思って。この子はわたしが初めて自分で買った子だから」


 そう言いながらギターを見つめる蓮華の瞳はどこか遠くを見ているようだった。彼女はしばらくギターを見つめていたが、やがて「歌いたいな」と呟いた。

 冬葉は微笑む。


「わたしも聴きたいです」

「そう?」

「はい」

「そっか」


 蓮華は少し考えるようにしてから「うん、そっか」ともう一度頷く。不思議に思って首を傾げた冬葉に彼女は微笑んだ。


「なんでもない。それよりさ、冬葉さん」

「はい」

「藍沢さんってどんな人?」

「ナツミさんですか?」

「うん。海音からもあんまり聞いたことなかったからさ。さっき実際に会って話して、どんな人なのかと思って」

「素敵な人ですよ。とても」

「……そっか」


 彼女は微笑むと「実際に会ったとき、絶対に罵倒されるって思ってたんだよね、実は」と続けた。


「ナツミさんはそんなことしませんよ」

「うん。そうだね。すごく大人ですごく優しい表情をする人だった。だから謝ることもできなかった」

「謝る?」


 冬葉が首を傾げると彼女は頷いた。


「わたしは藍沢さんにたくさん謝らないといけない。そう思ってるから」


 それはきっと海音との関係のことだろう。


 ――でも、きっと。


 冬葉は少し考えてから「謝る必要はないと思います」と言った。


「でもわたしのせいで――」

「たぶんナツミさん怒ると思うから」

「え?」


 冬葉は微笑む。


「きっと今のナツミさんなら蓮華さんに謝られたら怒るだろうなって思うんです」

「そうなの?」

「はい。謝るくらいなら別の形でその気持ちを見せろって言いそうな気がして」

「……そうなんだ」

「わたしの想像ですけどね」


 でもきっとそうだろうと思う。以前の彼女ならそんな反応をするとは思わない。しかし今の彼女ならきっと蓮華の謝罪を素直に受け取ったりはしないだろう。

 蓮華のためを思って怒るだろう。藍沢は蓮華が苦しんでいたことも知っているから。


「そっか。そういう人なんだ」


 蓮華は呟くと安堵したように息を吐いた。何か思い出しているのか、その視線はテーブルに向けられている。そんな彼女を見ながら冬葉は「さっき、他にどんなこと話したんですか?」と口を開いた。


「ん?」

「ナツミさんと話したって」

「ああ、うん」


 彼女は頷いて少し考えたが「内緒」と人差し指を唇に当てた。


「内緒ですか……」

「あ、不満そうな顔」

「そりゃだって、気になりますし」


 冬葉が言うと蓮華は微笑んだ。


「うん。でもごめんね。まだ言えない」


 そう言った彼女は思い出したように「冬葉さんって」と水を一口飲んでから口を開いた。


「この後に何か用事あったりする?」

「いえ。あとは帰るだけなので」

「そう。じゃあ、その帰るまでの時間を少しだけわたしにちょうだい?」


 蓮華は綺麗に微笑んだまま首を傾げる。


「それはもちろん大丈夫ですけど、何かあるんですか?」

「んー、内緒」

「また内緒……」

「気になる?」

「気になります」

「まあまあ。まずは食べようよ。ちょうど来たみたいだし」


 言いながら蓮華の視線は冬葉の後ろに向く。振り向くと店員が料理を運んでくるところだった。


「――ない」


 小さく何か呟いた蓮華の声が聞こえて冬葉は彼女に視線を戻す。蓮華はさっきまどとは違い、少しだけ強ばったような表情でスマホを見つめていた。


「蓮華さん?」


 名前を呼ぶと彼女は視線を冬葉に向けて再び笑みを浮かべた。


「なに?」

「いえ。その、何かありましたか?」

「ううん。せっかくだから料理を撮って海音に見せてあげようかなと思って」


 言いながら彼女はテーブルに並べられた料理に向けてスマホを構えた。


「そうですか。あ、じゃあ、わたしも撮ろうかな」

「うん。紗綾ちゃんに見せてあげなよ。ちゃんと美味しいもの食べてるって」

「ちゃんとってなんですか」


 冬葉が笑うと蓮華も笑った。しかし、やはりその笑顔にはどこか張り詰めた何かがあるような気がした。

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