第57話

 食事を終えて冬葉は蓮華と並んで歩いていた。最初のうちは料理が美味しかったとか紗綾の事などを話していたが、駅が近づいて人通りが多くなってくるにつれて蓮華の口数は少なくなっていった。店を出たときには手に持っているだけだった帽子も気づけば顔が見えないほど深く被っている。


「……蓮華さん」

「ん?」

「今からどこに?」

「んー、ここかな」


 彼女は駅前の広場で立ち止まる。


「ここですか」


 冬葉は周りを見渡す。時刻は二十一時を過ぎた頃。平日ということもあるだろう。足早に駅へと向かう人たちがバラバラと歩いて行く。その様子を彼女はどこか緊張した面持ちで見つめていた。


「蓮華さん? あの、大丈夫ですか?」


 声を掛けると彼女はビクッと肩を震わせ、そして深く息を吐き出した。


「ごめんね、冬葉さん。ちょっと座ってもいいかな」

「もちろんです。もしかしてアレルギーとかありました? 大丈夫ですか?」


 近くのベンチに腰かけながら冬葉は彼女の顔を覗き込む。街灯があるとはいえ暗くてよくわからないが、少し顔色が悪いような気がする。しかし蓮華は「ううん。大丈夫だよ」と薄く笑みを浮かべた。そしてベンチの背にもたれて深く息を吐き出す。

 疲れているという様子ではない。ただ張り詰めているような、そんな表情。その視線は広場を通り過ぎる人の流れに向けられていた。

 もしかすると彼女も何か話があるのかもしれない。それも大切な話が。それをこのまま待っていてもいいのだろうか。自分の気持ちを何一つ伝えることができないまま、ただ彼女の言葉を待つだけでいいのだろうか。


 ――ダメだ。


 冬葉は顎を引くと「あの、蓮華さん」と口を開いた。


「少しお話してもいいですか?」

「いいも何も、会ってからずっとお喋りしてるよ?」


 息を吐くように彼女は笑う。冬葉は「それはそうなんですけど、そうじゃなくて」と蓮華を見つめて言った。すると彼女は一瞬だけ冬葉に視線を向けて「真面目な話なんだね」と呟くとその視線を再び広場の方に向けた。


「はい」


 ちゃんと言葉にできる自信はまったくない。自分の気持ちを言葉にしたことなんて人生で一度もないのだ。それでもちゃんと伝えたいと思ったのは藍沢が背中を押してくれたから。自分も塚本のように一歩を踏み出してみたいと思ったから。なにより、蓮華の気持ちに応えたいと思ったから。

 冬葉は深く息を吸い込んで吐いた。そして口を開こうとしたとき「付き合うの?」と蓮華が言った。


「――え?」

「大事な話っぽいからさ、そうなのかなって」

「え、誰がですか?」

「冬葉さんが」

「……誰と?」

「藍沢さん」


 蓮華はそう言うと「素敵な人なんだもんね」と広場の方を見つめたまま言った。


「蓮華さん? 何を――」

「さっき話して思ったんだよ。大人だなって。まあ、当たり前なんだけどさ。わたしより年上だし、ちゃんと働いてるし、自立してるし……。たぶん顔も見たくなかっただろうわたしに声かけてくれて、色々と話してくれて……。わたしだったら無理だなって思った。正直わたしがもし藍沢さんの顔を知ってたら、あの場から全力で逃げてたよ」


 蓮華は言って軽く笑った。


「わたしは引きこもりだし居候だし、蓄えだってほとんどないから自立なんてできてないし。やり直すとか言いながら結局は人と関わることが怖くてさ、リハビリって言い訳してギターを弾いてるだけ。こんなわたしと藍沢さん比べたらどう考えても――」

「違います」


 冬葉は蓮華の言葉を遮って強い口調で言った。それでも蓮華は嘲笑するように口角を上げる。


「違わないよ。今のわたしは冬葉さんの隣で並んで歩けない。帽子で顔を隠さないと怖くて外も歩けない、こんなわたしなんかじゃ……」


 蓮華は言いながら帽子のつばを引っ張り、視界を遮るようにさらに深く被った。そんな彼女を見ながら冬葉は「ごめんなさい」と口を開いていた。


「なんで冬葉さんが謝るの。当たり前のことだったんだよ。冬葉さんが藍沢さんのことを好きになるのなんて――」

「そうじゃない!」


 思わず冬葉は声を荒げていた。蓮華は驚いたのかハッと息を呑んでわずかに顔を上げた。冬葉は一度深呼吸をすると「わたしは藍沢さんとお付き合いはしませんよ」と微笑む。


「藍沢さんとも、そう話したんです」

「……そうなんだ。じゃあ、わたしとも付き合わないって言うつもりだった?」

「なんでそうなるんですか」

「じゃあ――」


 しかし、蓮華はそのまま口を閉ざしてしまった。そして再び彼女の視線は広場の方に向けられてしまう。

 どうしたのだろう。いつもの彼女らしくない。いつもの彼女は穏やかに、控えめに、しかしまっすぐに気持ちを伝えてくれていたのに。いつも暖かな言葉で冬葉の心を包み込んでくれていたのに。


 ――わかってる。それに甘えてたからダメだったんだ。


 彼女がまっすぐに気持ちを伝えてくれるから、その彼女の気持ちが揺らぐことなどないと無条件に思ってしまっていた。

 そんなわけないのに。

 彼女がとても繊細で人との関係に怯えていることを冬葉はもう知っていたはずなのに。

 大人びた雰囲気だからつい忘れてしまう。彼女はまだ十九歳の少女なのだ。冬葉も自分が大人だとは思っていない。しかしきっと蓮華は冬葉よりも大人の世界をたくさん経験して、冬葉よりもたくさん苦しい思いをして、そしてきっと大人の世界に足を踏み入れたその時のまま心が止まってしまった少女のまま。


「蓮華さん」


 呼びかけても彼女は視線を向けてはくれない。それでも冬葉は続ける。


「わたしはきっと蓮華さんが好きになってくれるような、そんな大層な人間じゃないと思ってます。わたしは今まで自分のことは見ないように生きてきたし、妹さえ幸せになれるのならそれでいいって、それだけを考えて生きてきました。だから自分の気持ちもよくわからないです。誰かのことを本当に好きになったこともありません。でも、だからって今の自分の気持ちから逃げてちゃダメだって気づいたんです」


 そのとき蓮華の視線がこちらを向いたのがわかった。冬葉は彼女の帽子のつばを少し上げて視線を合わせる。


「わたしは藍沢さんのことが好きです」

「知ってるよ」


 掠れた声で蓮華が呟く。それでも視線は合わせてくれたままだ。冬葉は「でもそれは」と続けた。


「恋愛としての好きじゃないってわかったんです」

「……わかった? なんで?」

「それは――」


 冬葉は少し言葉に迷ってから「身体で確かめようとしました」と正直に答えた。その瞬間、蓮華が小さく口を開けた。しかし何も言わない。ただじっと冬葉の言葉を待っている。


「――未遂だったんですけど」

「……そう」

「そのときに藍沢さんとたくさん話をしたんです。それでわかってきた気持ちもあって――」


 話しながら冬葉は自分の心臓がドクドクと早く脈打っていることに気づいた。


「わたしは藍沢さんのこと好きだけど、それは別の好きという気持ちだったんだって。だから、えっと――」


 どんな言葉にしたらこの気持ちは表現できるのだろうか。気持ちを言葉にするにはどうしたらいいのだろう。どんな伝え方をすればこの気持ちは彼女に届くだろう。


「わたしの藍沢さんへの気持ちは、蓮華さんへの気持ちとは違ってたんです」


 好きだという言葉だけではきっと伝わらない。好きにはたくさんの種類がある。藍沢への好きとは違う、蓮華への好きは一体どんな種類の……。


「えっと、つまり、あの……」


 考えてもわからない。わかるわけがない。今まで散々考えてわからなかったのだ。だったら感じたままを言葉にすればいい。そのはずだ。


「蓮華さんと初めて会ったとき、すごく綺麗だなって思ったんです」

「……え?」


 蓮華は目を見開いてぽかんと口を開けた。冬葉は微笑みながら「それにすごく落ち着いた人だなって思いました」と続ける。


「鍵を落として帰れなくなってたわたしとお喋りしてくれたじゃないですか。それに別れ際には公園の神様だって言って」

「――ああ、言ってたね」


 蓮華は呆れたように笑った。冬葉も笑う。


「神様が悩みを解決してあげるって言ってくれて、なんだかすごく安心したんです」

「そこは普通は怪しむべきところだよ。わたしだったら二度と行かないよ。そんな奴がいるところ」


 冬葉は「紗綾も似たようなこと言ってました」と笑う。


「それでもわたしは会いたかったんです。蓮華さんがまた会ってくれるって言ってくれたのが嬉しくて……。蓮華さんの声はすごく心地良くて落ち着くんですよ。一緒にいるときの空気も好きだし、公園でたまに歌ってる鼻歌もすごく大好き。わたしにとって蓮華さんとあの公園で会う時間はとても大切で、幸せで、早く金曜の夜にならないかなって今でも思ってるんです。こうして公園以外で会うことができるようになったのもすごく嬉しくて……。それに蓮華さんが好きだよって言ってくれるたびに嬉しいけどちょっと胸が苦しくなったりもする」


 冬葉は自分の胸に手を当てながらもう一度深呼吸をする。そしてまっすぐに蓮華の顔を見た。


「だから、わたしのこの気持ちはきっと――」

「待って」


 蓮華が片手を上げて冬葉の言葉を止めた。


「それ以上は、ちょっと待って。冬葉さん」


 彼女はそう言うと深く息を吐き出しながら項垂れ、両手で頭を抱え込んでしまった。

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