第55話
会社では相変わらず藍沢は忙しそうであまり会話をするタイミングがつかめないままだった。しかし以前のような気まずさはない。藍沢が外出から戻ったタイミングで必ず声をかけてくれるようになったからだ。といっても一言二言交わす程度のもので会話らしい会話ではない。
そんなやりとりの中でなんとなくわかったことは、どうやら人手不足も相まって藍沢が複数の企画を掛け持ちで進行しているということ。そのうえトラブル処理も回ってくるらしく、見ているだけで大変そうだった。
木曜日。自分の作業量が軽くなった冬葉は何か手伝えることがないかと隙を見て藍沢に声をかけた。
「手伝いか……。んー。じゃあ、夕飯付き合って」
藍沢は次のミーティングの準備をしながら言った。
「今日、もし時間があればでいいんだけど。愚痴でも聞いてもらいたいしさぁ」
藍沢は笑いながらそう言った。冬葉は頷く。
「今日は予定もないから大丈夫ですけど、藍沢さん疲れてるのにいいんですか?」
「疲れてるからこそだよ。あのカフェ覚えてる? あそこ行こうよ」
「塚本さんの?」
「そう。別にあの子の店ってわけじゃないけどね」
「でも、たしかランチ営業だけでしたよね?」
「うん。それがね、先週からディナー営業も開始したんだってさ」
「え、そうなんですか?」
「そう。どうやらディナータイムの責任者になったらしくて」
「責任者! すごいですね」
冬葉が言うと藍沢は資料を用意していた手を止めて「ね、すごいよね」と微笑んだ。
「ずっと頑張ってきたの、認められたんだもんね。まあ、今からまた大変だろうけど」
藍沢は苦笑すると「じゃ、今日は頑張って早く上がるから先に店に行っててくれる?」とスマホを出した。
「予約はわたしの名前で入れとくからさ」
「あ、はい。わかりました」
冬葉が頷くと藍沢は嬉しそうに笑みを浮かべた。
「なんか、いいね」
「え?」
「いや、なんだろう。なんかいいなって思ったの。何がいいかってのは聞かないで。わたしにもよくわかんないから」
彼女はそう言うと「じゃ、行ってくるね」と資料を手にしてミーティングへと向かって行った。
「……お手伝いできなかったな」
いや、そもそも冬葉に任せられるような単純な作業はないのだろう。
――でも、ちょっと嬉しい。
きっと藍沢も冬葉と同じように冬葉との距離が縮まったと感じてくれているのだ。
「藍沢さん、なんか変わったよね」
「あーわかる。以前はクールな感じだったけど最近は接しやすいっていうか笑ってくれるよね」
「誰か良い人でも出来たかな」
「え、それは俺ちょっとショックなんだけど?」
そんな会話を聞きながら冬葉は自分の作業に戻った。
仕事を終えた冬葉は藍沢に言われた通り、先にカフェへと来ていた。カフェは外観は変わっていないが、店内が微妙に改装されているようだった。照明が少し変わったのだろうか。ランチ営業時よりも大人びた雰囲気の店内で冬葉はなぜか塚本と向かい合って座っていた。
「……あの、すみません。急に同席させてもらって。先輩から遅れるから桜庭さんの話し相手を頼むって」
「あ、そうだったんですね。お仕事は大丈夫ですか? 責任者になられたって聞いたんですが」
「ああ、はい。一応ディナータイムの責任者ではあるんですけど、今日は人が足りなくて昼シフトだったので今は仕事上がりです」
「そうなんですか。すみません。お疲れのところ」
「いえ。そんな……」
冬葉は視線を彷徨わせながら次の言葉を探す。
気まずい空気になってしまうのは冬葉が塚本の期待を裏切ってしまったからだ。彼女は冬葉と藍沢が付き合うことを望んでいた。それが今は叶わない。その説明をどうしたらいいのだろう。
考えていると塚本は「先輩と何かありましたよね」と言った。冬葉は目を見開いて彼女を見る。塚本は微笑んで「昨日の夜、来てくれたんですよ。先輩」と続けた。
「テイクアウトで買いに来てくれたんですけどね、ちょっと様子がいつもと違うなと思って聞いたんです」
「……ナツミさんは何て?」
塚本は微笑んだまま首を横に振った。
「何も。でも何て言うんだろう。ちょっとスッキリしたような、そんな顔でした。それはあなたと付き合えて幸せというわけでも、あなたに振られて悲しいというわけでもなさそうで。だから、何かあったんだなってくらいしか」
「……すみません」
思わず冬葉は謝る。塚本は微笑んだまま「謝るようなことをしたんですか?」と聞いた。
「……いえ」
「だったら謝らないでください。桜庭さんが謝るようなことをしていないってことはわかってますから」
「え……?」
「だって先輩は悲しそうじゃなかったから」
言って彼女は深くため息を吐いた。
「わたしはあなたが先輩を悲しませたら許さないって思ってましたけど、昨日の先輩はなんていうか――」
塚本は言葉を切ると少し考えてから「穏やかな顔だったんです」と言った。
「穏やか――」
「はい。今まで見たことのない先輩ですけど、きっと先輩にとってあなたとの関係は悪いものじゃなかった。そう思ったんです。だからそれでいいです。詳しく話を聞こうとも思いません」
「そう、ですか」
「でも一つだけ聞いてもいいですか?」
彼女は穏やかな表情で「桜庭さんは先輩のこと好きでしたか?」と言った。冬葉はまっすぐに彼女の瞳を見つめながら「はい」と頷く。
「今でも好きです」
「今でも……。そうですか」
彼女は頷くと少し悲しそうに眉を寄せた。
「人って難しいですね。お互いに好きなのに付き合わない関係もあるなんて」
「――塚本さんも好きですよね。ナツミさんのこと、今でも」
冬葉は少し迷いながら訊ねてみる。彼女は照れ臭そうに笑った。
「そうですね。我ながら諦めが悪いというか、なんというか」
「そんなことは……」
「いえ。自分でもわかってますから。いつまで初恋をひきずってるんだろうって……。だけど多分、今はちょっと好きの種類が違う気がしてます」
「好きの種類?」
彼女は頷く。
「わたしは先輩のことが好きです。でも今のわたしは先輩と付き合いたいとは思ってなくて」
「え?」
「前にも言ったと思うんですけど、先輩はわたしの憧れなんです。だから先輩と付き合うことよりも先輩が幸せになってくれたらそれが一番嬉しい」
彼女はそう言うと小さくため息を吐いた。
「もし先輩が幸せになってくれたらわたしも少しは大人になれるかもしれません。先輩じゃない誰かのことをちゃんと好きだって、はっきりと思えるようになるのかもしれない」
コーヒーを見つめながら呟く彼女を冬葉はじっと見つめていた。
彼女が言った通りだと思う。人は難しい。互いに好きだと認識していても恋人同士になれるわけじゃない。ずっと相手のことを好きでいても、恋人になりたいよりも相手の幸せを願ってしまう。そんな好きの種類もある。
「――単純だったらいいのに」
思わず呟いた冬葉の言葉に塚本は不思議そうに視線を上げた。冬葉は微笑む。
「漫画とか映画みたいに相手のことを好きだと確信できて相手も自分のことを好きなら付き合う。現実がそんな単純だったらいいのにって思っちゃって」
すると塚本は力なく笑った。
「ほんとですね。現実はわからないことだらけです。自分の気持ちすらわからない」
塚本はそう言うと深くため息を吐いた。
「――わたしね、実は今お付き合いしてる人がいるんです」
「え……?」
「わたしが先輩のこと好きだってことも知ってるのに、それでもいいって言う変な子で。押し切られるような形で付き合い始めたんですよ」
「その人のこと好きなんですか?」
「さあ。どうなんでしょうね」
塚本は困ったように首を傾げた。
「彼女への気持ちは先輩への気持ちと同じではないからよくわからないけど、彼女から好きだって言われると嬉しいんですよ。この辺があったかくなる。今まで感じたことのなかった、すごく新鮮な気持ちです」
彼女は言いながら胸に手をあてた。そして「だから」と幸せそうに微笑む。
「きっとわたしは彼女のことが好きなんだと思います。でも、この気持ちがちゃんとした恋愛感情なのかどうかは模索中です」
彼女はそう言うと「好きっていう気持ちには何種類あるんでしょうね」と呟いた。
それはきっと誰にもわからない。分からないからこそ混乱する。迷う。冬葉はそんな迷う自分から逃げたくなる。だけど塚本は逃げなかった。
だからこそ彼女はこうして幸せそうに微笑むことができているのだろう。自分の気持ちをすべて受け入れているから。
「実はこのあと、その彼女と会うんですよね」
「え、すみません。デートの前にわたしなんかに付き合わせちゃって」
「なんか、じゃないですよ。わたしの好きな人の好きな人なんですから」
「ややこしいですね」
冬葉が笑うと彼女も笑った。そして時計を見ると「じゃあ、すみません。そろそろ」と席を立つ。
「先輩から連絡来てますか?」
「いえ。もしかしたら緊急のトラブルでも入ったのかもしれません」
「うーん。彼女をここに呼んで一緒に食事という手もあるかな」
「いえいえ。それはさすがに申し訳ないですよ。大丈夫です。きっともうすぐナツミさん来ると思いますから」
「まあ、先輩は約束をすっぽかすようなことはしませんからね」
「はい。わたしたちの好きな人ですし」
冬葉は塚本と視線を合わせて笑みを浮かべる。
「それじゃ、行きますね」
「あの、塚本さん」
バッグを持った彼女に冬葉は「ありがとうございました」と礼を言う。彼女は不思議そうに首を傾げた。
「お話が聞けて本当に良かったと思って」
「そんなたいしたことは話してないと思いますけど」
「いえ。塚本さんのお話を聞いて、なんだかちょっと前に進めるような気がして」
すると塚本は柔らかく微笑んだ。
「わたしみたいに一歩前に進むまで何年もかけてちゃ駄目ですからね。これは駄目な手本です。じゃあ、また」
「はい。また」
冬葉は彼女に手を振り、塚本が店を出て行く。一人残されたテーブル席は静かだ。
平日だからだろうか。時間が経っても店内の客数はそこまで多くはない。ゆったりと過ぎる静かな時間の中、冬葉はスマホを確認する。まだ藍沢からの連絡はない。
――忙しいんだろうな。
連絡してみようか。メッセージを送っておけばそのうち見てくれるかもしれない。考えているとふいに「ここ、良いですか?」と心地良い声が聞こえた。
「――え?」
顔をあげて思わず声を漏らす。テーブルの横に立っていたのは藍沢ではなく、背中にギターケースを背負って綺麗な笑みを浮かべた少女。
「こんばんは、冬葉さん」
彼女はそう言って「サプライズ成功?」といたずらっ子のように笑った。
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