第十三章

第54話

 翌朝、冬葉は出勤前に一度アパートに戻ることにした。藍沢が着替えを貸してくれると言ってくれたのだが、身長の差もあってサイズが合わない。ということを風呂上がりに貸してくれた部屋着で痛感したのだ。ウエストも足の長さも冬葉よりも細くて長い。


「ナツミさん、モデルさんみたいにスタイル良いですよね」


 一緒に朝食を食べているときに思わずそんな言葉を洩らした冬葉に藍沢は「そう? 普通じゃない?」と首を傾げていた。

 いつも通り。いや、いつもより彼女の存在が近くなった気がする。気まずさなど微塵も感じないのは、きっと寝る前に同じベッドでたくさん話したからだろう。

 仕事の話、子どもの頃の話、学生時代の話、そして海音や蓮華の話。

 藍沢は蓮華の話をしたがらないかと思っていたが、彼女は冬葉が語る蓮華の話を穏やかに聞き、海音から聞いたという蓮華の話も穏やかに語ってくれた。そして海音が金曜の夜、ここを訪れた理由が蓮華であるということも。


「まあ、でも気にする必要はないよ」


 ベッドの中で藍沢は「あれは自業自得みたいなところもあるだろうし」と笑った。


「自業自得、ですか」

「だって海音はあの子がいつまでも自分のことだけを頼りに生きていくはずだって思ってたってことだよ? そんなわけないのにね」

「でも蓮華さんはきっと、ずっと海音さんと一緒にいるって思ってると思いますよ?」

「うん。わたしもそう思う。だけど海音にはそれがわからないんだよ。あの子が自分で歩き始めたら、もう自分は必要ないんじゃないかって怯えてる」

「そんな……」


 蓮華がそんなこと思うはずがない。彼女が前に進めるのは海音の言葉があったからで、海音がずっと蓮華の居場所を守ってきてくれたからこそ今の彼女がある。それなのに……。


「冬葉がそんな顔することないよ」


 気づくと藍沢が柔らかな笑みで冬葉のことを見ていた。


「あいつもすぐわかるでしょ。もしまたグダグダ言ってきたら分からせるから安心して」

「分からせる……?」

「うん。任せといて。あ、だから冬葉は海音のことなんて絶対に気にしないこと。いい? これからは自分に優しく、だからね?」


 さきほどまで微笑んでいた藍沢がハッとしたように少し眉を寄せる。冬葉は笑いながら頷き、そして次の話題へ。

 そんな時間を過ごしているうちにいつの間にか眠ってしまっていた。それはとても心地良く、楽しくて安心できる時間だったように思う。きっと藍沢もそうだったのだろう。起きて顔を合わせたときの藍沢の表情が今まで見たこともないほど晴れやかなものだったから。


 ――わたしとナツミさんの関係は何になるんだろう。


 アパートで着替えて会社へ向かいながら冬葉はそんなことを考える。

 職場の同僚とは違う。では友達だろうか。しかしそれも違う気がする。藍沢は冬葉のことが好きで冬葉も藍沢のことが好きだ。だからきっと友達よりも近い。そんな感じがするのだ。

 ただの同僚ではない。友達でもない。そして恋人でもない。


 ――こんなこと聞くとナツミさんは困っちゃうかな。


 そのときスマホが鳴った。蓮華から着信だ。時間はまだ七時半少し前。こんな時間にかかってくるなんて初めてだ。

 冬葉は不思議に思いながらスマホを耳にあてた。


「――あ、冬葉さん? おはよう」

「おはようございます、蓮華さん。どうしたんですか?」

「ん、なにが?」

「こんな時間に電話なんて初めてだから」

「あー、あれ? 今何時だっけ?」

「えっと、多分七時半くらいです」

「え……」


 蓮華はなぜか驚いたように声を漏らすと「ごめん、もしかして忙しい?」と続けた。


「ああ、いえ。駅に向かってるところなので大丈夫ですよ」

「もう家出てるんだ?」

「いつもはもう少し遅いですけどね」


 冬葉が笑うと蓮華は「ごめんね」と元気のない口調で言った。


「ちょっと声を聞きたくなっちゃって」

「声? わたしのですか?」

「うん。寝る前に聞いておきたくて」

「え、今から寝るんですか?」


 冬葉が声を高くすると蓮華は「そうなんだよ」と笑った。


「ずっと曲作ってたんだけどさ、気づいたらこんな時間になってて……。いつもは海音が早く寝ろって言ってくれるんだけど今日はなにも言ってくれなくてさ。さっき部屋出てみたらもう海音も仕事に行っちゃってて」


 そう言った蓮華の声は少し淋しそうだった。脳裏には藍沢から聞いた話が蘇る。


「……三朝さん、お元気ですか?」

「え、海音? どうして?」


 冬葉はハッとする。たしかに急にするような質問ではない。冬葉は慌てて「あ、いや別に深い意味はないですけど」と誤魔化す。蓮華は「ふうん?」と不思議そうに呟いたが「実はさ、最近あんまり話してくれないんだよね」と続けた。


「そうなんですか」

「うん。土曜なんて朝帰りだったんだよ? そういえば一緒に暮らし始めてから海音が朝帰りなんて初めてかも」

「どこに泊まったとかは聞いてないんですか?」

「聞いてないなぁ。というか聞くタイミングがなかったというか。なんかさ、最近の海音よそよそしいんだよね。わたしのこと避けてるみたいな」

「そんなこと――」

「うん。あるわけないよね」


 蓮華は息を吐くようにして笑う。


「海音のことだもん。もしかしたら風邪ひいててわたしに移さないようにしてるのかも。今日、海音が帰ってきたら聞いてみるよ。ありがとう、冬葉さん」

「いえ、わたしは何も」

「……冬葉さんは大丈夫?」


 ふいに蓮華は心配そうな口調でそんなことを言った。冬葉は「え、どうしてですか?」と思わず目を見開く。


「なんか、声がちょっと沈んでる」

「そんなことないですよ。わたしは元気です」

「そう?」

「はい」

「じゃあ良かった」

「わたしよりも蓮華さんの方が心配ですよ。ちゃんと睡眠と、あと食事もしっかり取ってくださいね」

「あ、ご飯か。それも忘れてた」


 冬葉は思わず笑ってしまう。


「ダメですよ。蓮華さん、ただでさえ細いんですからしっかり食べないと」

「それは冬葉さんもだよ」


 蓮華は笑うと「じゃあ、そろそろ切るね。仕事、頑張って」と言った。


「はい。ありがとうございます」

「冬葉さん」


 柔らかな蓮華の声は「好きだよ」と囁いて消えた。


「……またそんな真っ直ぐに言う」


 冬葉は通話の切れたスマホを胸に当てながら呟く。蓮華はまっすぐに気持ちを伝えてくれる。言葉でも態度でも、そして歌でも。まるでまだ冬葉にその気持ちが届いていないと言わんばかりに、真っ直ぐに。


 ――自分に優しく、か。


 それはつまり、自分の気持ちを何よりも優先させろということなのだろう。

 ぼんやりと歩いているうちに駅が見えてきた。通勤時間帯の駅にはアリの行列のように人々が列を成して吸い込まれていく。


 ――他の人たちはどうやって自分の気持ちを優先してるんだろう。


 そして、どうやって恋愛をしているのだろう。理屈ではない。それはわかっている。わかっているのに理屈で考えてしまう。そしてわからなくて混乱してあんなことをしてしまった。だからきっと考えてはダメなのだ。 


 ――会いたいな。蓮華さんに。


 彼女と会っている間はこんなことを考えないから。彼女が目の前にいるだけで嬉しい気持ちになれるから。


 ――早く金曜日が来ないかな。


 改札を通り抜ける列に並びながら冬葉は微笑んだ。

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