第53話

「ナツミさん……?」


 冬葉が心配そうに口を開いた。ナツミは彼女を見つめたまま「どうして――」と呟く。そしてポスンと彼女の横に転がるように身体を倒すと両手で顔を覆った。


「ダメだよ、冬葉。ちゃんと嫌だって言わないと止まれなくなっちゃうじゃん」

「ナツミさんのこと、嫌じゃないですよ」

「違うでしょ。冬葉のそれは」


 ナツミは顔を覆ったまま身体を小さく丸めると深く息を吐き出した。


「……ごめん、わたしが悪い」

「悪くないです。ナツミさんは」


 ふわりとナツミの頭を冬葉が撫でる。ナツミは更に身体を小さく丸めると「なんでまだ優しくできるの」と言った。


「わたし、ひどいことしようとしたよ?」

「わたしがいいって言ったから、ひどいことじゃないですよ」

「冬葉が断れないの知ってて言ったのに」


 すると微かに吐息を感じた。笑ったのだろうか。少しだけ顔を上げてみると冬葉は悲しそうに微笑んでいた。


「……冬葉?」

「ひどいことしたのはきっとわたしの方です」


 彼女はそう言うとサラリとナツミの髪を撫でながら「わたし、ちょっと試したんです」と続けた。


「試した?」

「嫌だって感じるのかどうか」


 意味がわからず、ナツミは眉を寄せた。


「前に言ったと思うんですけど、わたし誰かを好きだって思ったことがなくて」

「……そういう状況じゃなかったからでしょ?」


 しかし冬葉は微笑んだまま「そう思うこともありましたけど、それはきっと言い訳で」と言った。


「ナツミさんや蓮華さんと出会って、わたしもちゃんとしなきゃって思うようになったんです。自分の気持ちに向き合って、自分がどんな気持ちを持っているのかちゃんと知っていこうって」


 冬葉はそこで言葉を切ると何かを思い出すように目を細めた。


「わたし、二人がわたしのこと好きだって言ってくれてドキドキしたんです。今まで生きてきた中で感じたことのない気持ちだって思いました。でも、それが好きだっていう気持ちなのかどうかわからなくて」

「ドキドキしたんだ?」


 ナツミは身体を起こすと、まだ仰向けに寝転んだままの冬葉を見つめる。


「はい。でもそれは今まで誰かに好きだって言われたことがなかったから、ただ嬉しかっただけなのかもって。この気持ちがどんな気持ちなのか、ずっと考えて……」


 彼女は天井に視線を向けながら「でも、やっぱりわからなくて」と続けた。


「だから試したんです」

「……なにを?」

「ナツミさんと寝たら、自分の気持ちが少しはわかるんじゃないかって」


 彼女は言ってナツミに視線を向ける。


「ひどいのはわたしなんです。ナツミさんの気持ちを利用して、自分のことを知ろうとした」

「その気もないのに寝ようとしたの?」

「はい」


 冬葉は息を吐きながら自嘲するように笑うとゆっくりと身体を起こした。


「だからきっと嫌われるのはわたしの方です。幻滅されるのも――」

「しないよ」


 ナツミは即答した。冬葉は目を見開く。


「わたしはそんな冬葉を嫌いになったりも幻滅したりもしない」

「どうしてですか。わたしはひどいことを――」

「わたしも同じだから」


 ナツミは言って微笑む。

 ちゃんと笑えているからわからない。それでも笑みを浮かべずにはいられない。冬葉もナツミと同じ。どうしようもない気持ちを抱えているのに、その感情が何なのかわからないのだ。


「わたしも確かめようとしたの。自分の気持ちを」

「ナツミさんの?」


 ナツミは頷く。


「わたしは冬葉が好きだよ。それはウソじゃない。それなのに海音のことも頭から離れなくなってる。挙げ句には空気に流されてさ。もうわけわかんなくなっちゃって、自分が情けなくてどうしようもなくて……。だからさっきみたいなことしたの。冬葉に触れたら自分の気持ちがわかるんじゃないかって」

「……わかりましたか?」


 冬葉は悲しそうに微笑んで首を傾げた。ナツミは首を横に振って視線を俯かせる。


「何も感じなかった。わたし、冬葉のこと好きなのにさ」

「三朝さんに触れたときは?」


 ナツミは俯いたまま「一緒だよ」と声を振り絞った。。


「何も感じなかった。わたしは海音のことを好きだったし、今は冬葉のことが好き。それなのに二人に触れても何も感じないなんてわけがわからなくて――」


 声を荒げかけたナツミはふわりとした柔らかな感触にハッと口を閉じた。気づくと冬葉がナツミのことを包み込むように抱きしめていた。


「――冬葉?」

「今こんなこと言うのは違うのかもしれないですけど」

「……なに?」

「安心しました」


 首元に冬葉の暖かな吐息を感じる。彼女は少しだけ強くナツミのことを抱きしめた。


「わたしもナツミさんの温もりを感じたら何かわかるかもしれないって思ったのに……。嬉しいとか嫌だとか、何か今までとは違う気持ちを感じるかもしれないって。でもわからなくて……。わたし、もしかすると誰のことも好きになれないんじゃないかって」


 ナツミは微かに震える冬葉の背中をそっと撫でた。

 彼女は海音とよく似ている。そう思っていた。しかしそうではなかったのかもしれない。もしかすると彼女が似ているのは海音ではなく、ナツミ自身。


「――あの子だったら、どうだったかな」


 ナツミの言葉に冬葉は「え?」と微かに声を漏らして身体を離した。


「今日、冬葉にキスして触れようとしてたのがあの子だったら?」

「蓮華さん?」

「そう。今、ここにいるのがあの子だったら冬葉はどんな気持ちになってた?」


 すると冬葉は黙り込んでしまった。じっとナツミを見つめているが、しかしその視線の先にいるのはきっとナツミではないだろう。

 しばらくの沈黙のあと「わかりません」と彼女は静かに口を開いた。ナツミは「そっか」と微笑む。冬葉はそんなナツミを見ながら「でも――」と続けた。


「申し訳なく思ったかもしれません」

「どうして?」

「だって、蓮華さんはすごい人です。自分でどうしたいのか決めて自分の気持ちに正直で、今はもうしっかりと前を見て歩いてる。それに比べてわたしは自分でどうしたいのかもわからないし、自分で前に進むこともできてない。わたしなんかじゃ蓮華さんと釣り合わないです」

「そんなことないでしょ」

「そんなことあります。今だってわたしはナツミさんのこと傷つけて――」


 ナツミは息を吐いて笑うと冬葉に両手を延ばし、その身体を包み込んだ。


「それはお互い様みたいなもんじゃない?」

「でも、わたしは――」

「あの子は冬葉のことが好きだって、そう言ったんでしょ?」


 彼女を抱く腕に力を込めながらナツミは続ける。


「それなのにあの子に対して申し訳ないってさ、それは失礼だよ。冬葉」

「……でも」

「大丈夫だよ」


 ナツミは彼女の温もりを感じながら目を閉じた。


「誰も冬葉の気持ちを否定なんてしない。誰も冬葉がやりたいことを咎めたりもしない。もう我慢する必要なんてないんだよ。ずっと頑張ってきたんだもん。誰かを好きになるときくらいはさ、自分に優しくしてあげようよ」

「ナツミさん……」


 ギュッとしがみつくように冬葉がナツミの背中に腕を回したのがわかった。小さな子どものように弱々しい腕は、さっきナツミのことを抱きしめてくれた腕と同じとは思えない。

 ナツミは微笑みながら「わたしね、やっぱり冬葉のこと好きだよ」と続けた。


「わたしも好きですよ。ナツミさんのこと」

「うん。知ってる。でもね、きっとわたしの方がもっと好きだよ。だから応援してる。冬葉が自分にも優しくできるように」


 優しい子だから、きっと誰のことも好きになるのだろう。冬葉が誰かを嫌うなんて想像もできないから。そしてまっすぐに好意を寄せられると流されてしまうのかもしれない。相手の気持ちを想うがあまりに自分の気持ちを無意識のうちに殺しながら。

 それでも良い。流されて彼女が手に入るのならそれでも構わない。

 さっきまでそんな考えが頭のどこかにあった。場の空気に流されたとしても愛を囁いて一度でも手に入れてしまえば彼女はナツミのことを好きになる。そう錯覚してくれる。でも……。


 ――そうなったらきっと壊れちゃう。


 自分の気持ちも冬葉の気持ちも、冬葉との関係も、そしてきっと海音との関係も何もかも。


 ――わたしが好きなのは自分に優しくできない今の冬葉だから。


 だから応援しよう。冬葉が前に進んで今とは違う笑顔を向けてくれたら、そうしたらきっとこの気持ちも別の感情へと変わるはず。


 ――そうなったらわたしはまた誰かを好きになれるのかな。


 一瞬、海音のことが頭をよぎる。だが彼女に対するこの感情が昔と同じだとは思えない。今の彼女のことを好きだと、はっきり言葉にして言うことはできそうもない。だって今、自分が好きなのは冬葉なのだから。


「ねえ、冬葉」


 ナツミは目を閉じたまま囁くように口を開いた。


「今日はそばにいてくれる? もう、何もしないからさ」


 ――ただ温もりがほしい。それだけだから。


 すると冬葉の手がナツミの背中を優しく撫でた。


「一緒だと温かいですからね」


 ナツミは微笑む。


「そうだね。冬葉は温かいから」

「ナツミさんもですよ。温かいし、柔らかくて好きです」

「それは冬葉もだから」


 ソファの上で抱き合いながら二人で笑い合う。

 いつの間にか雷は鳴り止んだようだ。静かな部屋にはテレビから流れる穏やかな曲だけが優しく響いていた。

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