第52話
食事中、冬葉はずっと楽しそうだった。あえてそうしてくれていたのかもしれない。今のナツミは普段とは違う。自分ですらそう思うのだ。きっと彼女には伝わってしまっているはず。その証拠に食事を終えてからは会話がピタリと止まってしまった。
部屋に聞こえるのは皿を洗う音と小さなテレビの音。そして時折、地鳴りのような雷の音が響いてくる。
「――雨、さらにひどくなっちゃったね」
皿を洗い終えたナツミはソファに座る冬葉の隣に腰を下ろした。彼女はテレビで天気予報を見ていたようだ。そこに表示されているのは大雨と雷のマーク。
「今夜は深夜すぎまでこんな感じらしいです。電車も今日はもう動かないってニュース速報が流れてましたよ」
「そっか」
「はい」
「じゃあ、泊まってく?」
ナツミはテレビの画面を見つめながら聞いてみる。
沈黙。
きっとどういう意味なのか測りかねているのだろう。ソファのスプリングが少し揺れる。
「えっと、でも迷惑はかけられないですし」
「迷惑だと思うなら自分からこんなこと言わないよ」
ナツミが微笑みながら冬葉に視線を向ける。彼女は予想した通り、困惑した表情でこちらを見ていた。その顔はアルコールのせいか少し赤い。あまり呑んでいない様子ではあったが、普段から呑み慣れていないせいで酔いやすいのだろう。
――結局、わたしはあんまり酔えなかったな。
いつもよりもハイペースに、いつもより多い量を飲んだというのに未だに思考は冷静だ。ナツミは困った顔の冬葉を見つめながら「ね? 泊まっていきなよ」と冬葉に顔を近づけた。
「――ナツミさん」
「なに?」
「酔ってますよね?」
「ぜんぜん。酔ってないよ」
囁くように言いながらナツミは冬葉の肩を軽く掴んで彼女をソファにそっと押し倒した。ふわりと香ったのは冬葉の香り。海音とは違う香り。
彼女は何も言わず、ただじっとナツミのことを見返している。怖がることも嫌がることもない。ナツミもまた彼女をじっと見つめながら顔を近づけた。柔らかな唇が触れた瞬間、微かに冬葉が息を漏らしたのがわかった。しかし、それだけだ。
「――冬葉」
――もっと嫌がるかと思ったのに。
思いながら今度は強く唇を押し当て、わずかに開いた唇の隙間から舌を滑り込ませてみる。すると彼女が身体を強ばらせたのがわかった。ナツミは薄く笑みを浮かべて唇を離す。
「嫌がってもいいのに」
ナツミは言ったが冬葉は何も答えない。しかし、ナツミのことを受け入れているわけではないことはその表情からわかった。
「……何も言わないならこのまま続けちゃうよ?」
ナツミは言って彼女の頬を撫でる。くすぐったかったのか、冬葉はわずかに目を細めると「どうしたんですか、ナツミさん」と呟くように言った。
「なにが?」
「ナツミさん、いきなりこんなことする人じゃないですよね」
その言葉にナツミは息を吐いて笑った。
「冬葉はわたしを買いかぶりすぎてるんだよ」
「――何かあったんですか?」
「なんで?」
「苦しそうな顔してるから」
ふわりと冬葉の手がナツミの頬に触れた。温かくて柔らかなその手はとても優しい。ナツミは彼女を見下ろしながら「何もないよ」と笑う。
「冬葉こそ、あったでしょ」
「わたし?」
「金曜の夜、あの子とデートしたんでしょ? いつもの公園じゃない場所で」
「え、どうして……」
「海音に聞いた」
「三朝さんと会ったんですか?」
「うん。冬葉があの子と会ってた夜にね」
ナツミは微笑むと冬葉を包み込むように身体を重ねた。重たくないように少しだけ身体をずらして彼女を抱きしめる。彼女の顔を見ないように、彼女の肩に自分の額を押しつけながら。
「楽しかった? あの子とのデート」
「……楽しかったですよ」
――デートだってこと、否定しないんだ。
「やっぱり決めたんだ? あの子と付き合うって」
「それはわかりません」
「デートしたのに?」
「ナツミさんとだってデートしましたよ、わたし」
「あの山に行ったやつ?」
「今日だって」
「これ、デートだと思ってる?」
返事の代わりに冬葉はナツミの髪をさらりと撫でた。
「何かあったんですよね、ナツミさん。お酒だって、あんなに呑んで」
ナツミの頭を優しく撫でながら冬葉は言う。落ち着いた声で。優しい声で。
「こういうところはお姉ちゃんぽいよね、冬葉は」
ナツミは軽く笑って深く息を吐く。ふわり、ふわりと頭を撫でてくれる冬葉の手が心地良い。その温もりにナツミは目を閉じた。
つけっぱなしのテレビからは笑い声が聞こえてくる。今は何時だろう。わからないが、バラエティの時間帯になったのだろう。雷の音は未だに低く響いてくる。
「――海音と寝た。金曜の夜」
ナツミが口を開くと冬葉の手の動きが止まった。
「どう、して?」
冬葉の声が掠れているのは驚いたからだろうか。それとも別の感情からだろうか。わからない。わかりたくもなくてナツミは身体を小さくして冬葉の胸元に顔を埋める。
「流された、みたいな」
「流され――?」
「そう。場の空気に流されたの。幻滅した?」
「……しませんよ」
「それは冬葉がわたしのこと好きじゃないから?」
「そんなことありません。わたしは好きですよ。ナツミさんのこと」
冬葉はギュッとナツミを抱く腕に軽く力を込めた。柔らかな冬葉の胸からはトクットクッと心臓の音が聞こえる。それはとても心地良いリズムで少しだけ安心する。その音を聞きながらナツミは「ウソはいいよ」と笑いながら言った。
「ウソじゃないです」
「ふうん」
ナツミはモゾリと身体を起こすと冬葉の顔を覗き込む。
――なんでそんな目で見るの。
哀れむような目ではない、嫌悪の目でもない。彼女の目から感じるのは優しさだけ。
「そんなこと言っていいの? 嫌なら嫌だって言わないと、このまま続けちゃうよ?」
言いながらナツミは彼女の服の裾から手を入れて柔らかな肌に触れた。ピクリと冬葉の身体が動く。しかし「……ナツミさんがそうしたいのなら、いいですよ」と彼女は掠れた声で言った。ナツミの手を振り解こうともしない。まっすぐにナツミのことを見つめ返してくる。
「……ほんとに、しちゃうよ?」
呟きながらナツミは彼女に口づけた。
ナツミが肌に触れるたびに冬葉は小さく震える。キスをするたびに冬葉は優しい目でナツミのことを見返してくる。まるで何かを確かめようとしているかのように。
彼女の頬はまだアルコールが回っているのかほんのりと赤い。しかしそれとは裏腹に彼女の表情には熱に浮かされた様子など微塵もなく、ただナツミのことを慈しむような、そんな表情を浮かべていた。
冬葉はナツミのことを好きだという。
きっとそうなのだろう。だからこそ今この状況でも受け入れようとしてくれている。こんなむちゃくちゃなことをしているナツミのことを理解しようとしてくれている。
――どうして。
ナツミは彼女を見つめながら、沸き上がってくるどうしようもない感情に虚しさを覚えて動きを止めた。
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