第51話

 翌朝、すっかり酔いも冷めた海音はナツミがよく知る彼女に戻っていた。


「……ナツミはさ、わたしのこと依存体質だって言ったけどさ」


 朝食を食べながら海音はふいに口を開いた。


「ナツミは場の空気に流され体質だよね」

「うるさい」

「怒ってる?」

「怒ってない。酔っ払いに流されたわたしが悪かった」


 ナツミの言葉に海音は困ったように力なく微笑んだ。


「……後悔してる? 昨日、わたしを家に入れたこと」


 ナツミは答えずにトーストを口に運ぶ。

 後悔はしていない。きっとあのまま彼女を追い返していたらそれこそ後悔していた気がするから。しかし罪悪感はある。いや、罪悪感とは違うのかもしれない。

 これはどんな感情なのか、自分にもよくわからない。ただモヤモヤした気持ちだけが昨日以上に強くなっている。


「ナツミ?」

「食べたら帰ってよ」

「……うん」


 海音は頷き、無言で朝食を食べ進める。そしてポツリと「また連絡していい?」と言った。

 それを拒否すれば良かったのだ。もうあんたとは二度と会わない。そう突っぱねてしまえば良かった。自分が好きなのは冬葉だから、と。


 ――そんなこと、言えるわけない。


 ジュゥと音を立てて肉が焼けていくのを見ながらナツミはため息を吐いた。

 あの時の自分はどうかしていた。

 疲れていたから。

 淋しかったから。

 いくらでも言い訳はできる。しかし事実は変わらない。海音の温もりを感じてしまった、あの夜のことは。


「わー、すごい良い匂いですね」


 ふいに隣から冬葉の声が聞こえてナツミは思わずビクッと肩を震わせた。


「っくりしたぁ」

「あ、ごめんなさい。やっぱり何か手伝えないかと思って。ただ座ってるだけだとソワソワしちゃって」


 冬葉は申し訳なさそうに笑うと「お皿、出しますよ」と食器棚に視線を向ける。


「じゃあ、その一番下の段に入ってる白くてちょい大きめなやつ出してもらっていい?」

「はい。これですね」


 冬葉は皿を出しながら「スープもあるんですか?」と鍋の中を覗いて言った。


「うん。昨日のうちに色々と作ってて。冷蔵庫のスペースなかったの、実はその鍋が六割を占めてたんだよね」

「たしかにお鍋はスペースとりそう。でも、これ全部今日のために?」

「まあ」


 ナツミが曖昧に頷くと冬葉は苦笑した。


「わたしが今日来れなかったらどうするつもりだったんですか?」

「あー、それは考えてなかったけど。そのときは自分で頑張るしかなかったかな」

「一人で……。さすがにこの量は無理じゃないですか」

「んー。そうだね」


 ナツミは笑いながらフライパンを見つめた。

 正直、この料理は今日のために作ったというわけではなかった。気を紛らわせたかっただけだ。食材もちょうどたくさん届いたタイミングだったので一日中何も考えずにひたすら料理をしていた。そうすることで逃げていたのだ。自分が考えるべきことから。

 今日、冬葉を誘ったのはふとした思いつきだった。きっと彼女は断らない。そう思ったから。冬葉の優しさを、知っているから。


「よし。冬葉のおかげで早く準備できたね。手際良いし、料理ができないとかウソでしょ」

「いえ。ほんとに家ではだいたい冷凍食品とかなので」

「でもサラダも作ってくれたし、スープも温めてくれたじゃん」

「それ、たぶん小学生でもできますからね?」

「そんなことないでしょ」


 ナツミは笑いながら料理を乗せた皿をテーブルへと運んだ。冬葉も料理を運びながら「ナツミさんはいつもどっちに座るんですか?」とテーブルに視線を向けた。


「こっちだよ」

「じゃあ、わたしはこっちですね」


 そう言って彼女はナツミの向かい側に腰を下ろす。海音以外は座ったことがなかった席に。


「ナツミさん?」


 我に返ったナツミは笑って「ビール、忘れてたなって」と冷蔵庫からビールを持ってテーブルに戻る。

 二年前、海音が出て行ってからは一人で座って食事を食べていたテーブル。土曜にはそこに海音が座っていた。そして今、そこには冬葉が。


 ――なんでだろう。何も思わない。


 嬉しいとも、辛いとも、嫌だとも思わない。違和感もない。もしかするとそこに誰が座っていようとも、何も思わないのかもしれない。


 ――なんで。


 嬉しいはずなのに。冬葉が家に来てくれて、ナツミが作ったご飯を一緒に食べてくれる。料理の支度だって手伝ってくれて、久しぶりにたくさん会話もできて楽しかったはず。それなのにどうして何も感じないのだろう。


「はい、ビール」


 自分のいつもの席に座ってナツミは冬葉に缶ビールを手渡す。


「あ、グラスに入れた方がいいかな」

「いえ。洗い物増えちゃいますし、このままで大丈夫ですよ」

「そ? じゃあ、まずは乾杯ってことで」


 言いながらナツミはプルタブに指をかけて缶を開けた。プシュッと小気味の良い音が響く。そして冬葉の持つ缶と「かんぱーい」と軽くぶつけあう。


「て、何に乾杯ですか?」

「え、さあ。月曜の夜に?」

「なんですか、それ」


 二人で笑いながらビールを喉に流し込む。炭酸が弾けて喉が痛い。それでも構わずナツミは流し込み続けた。


「ナツミさん、けっこうお酒強いんですか?」


 最初の一口の多さに驚いたのか、冬葉が目を丸くした。


「ううん。普通だよ。むしろちょっと弱い方」


 ナツミは笑いながら「でも、今日は特別だからね」と更にビールを流し込む。

 冬葉は少し心配そうな表情をしたが、料理を一口食べると「あ、すごい! めちゃくちゃ美味しいですね! これ!」と笑顔を浮かべた。


「でしょ。良い肉だからね、それ。味付けもカンペキだから」


 ナツミは言いながらさらにビールを呑んだ。早く酔ってしまいたかった。

 この真っ直ぐで優しい笑顔はすぐに曇ってしまう。きっと自分はもうすぐ彼女を困らせてしまうから。


 ――でも、もうどうしたらいいかわからない。


 だから少しでも罪悪感を和らげたくてナツミはジュースのようにビールを飲んだ。途中で口に運んだ料理は冬葉が言うほど美味しいとは思えなかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る