第50話

「……酒臭い」


 ソファに座った海音を見下ろしながらナツミは呟く。彼女は軽く笑って「バレたか」と深く息を吐いた。


「ため息を吐きたいのはこっちなんだけど」


 ナツミは冷蔵庫から水を取り出すと彼女に差し出した。


「酒は呑まないって言ってなかった?」

「言ってたし、呑まないよ」

「呑んでるじゃん」

「呑んでるね」


 海音は言いながらナツミの手からペットボトルを受け取ると水をグビグビと飲む。そして再び深くため息を吐いた。


「……なんで来たの」


 海音はチラリとナツミを見るとズルズルとソファに埋もれるように姿勢を落としていく。


「このソファ、変えてないんだね」


 言って彼女はそのまま視線だけを動かして部屋を見回した。


「家具、変わってないんだ?」

「質問してるのはこっちなんだけど」


 しかしなぜか海音は微笑む。


「ナツミも変わってないよね」

「ちょっと」

「――なんでだろうね」


 ため息交じりに彼女は言って天井を見上げた。


「なんで来ちゃったんだろう」

「なにそれ。何か用があったんじゃないの?」

「何か……」


 彼女は少し眉を寄せて考えると視線をナツミに向ける。しかし何も言わない。

 酔っているせいで頭が回っていないのだろうか。ナツミはキッチンでタオルを濡らして海音の前に戻ると彼女の額にタオルをポンと乗せた。


「……冷たい。なに?」

「それ顔に乗せて酔い冷まして。わたし、シャワー浴びてくるから」


 その瞬間、グイッと海音に腕を引っ張られた。体勢を崩したナツミは海音に覆い被さるようにソファへと倒れる。触れてしまいそうなほど近くには海音の顔がある。

 あの日まで毎日近くで見ていた彼女の顔は変わらない。愛しかった彼女の顔は相変わらず綺麗だ。ほんの一瞬だけ昔に戻ったような錯覚を覚える。

 ナツミはそのまま彼女を見つめながら「なにしてんの」と低く言った。海音は薄く笑う。


「なにしてんだろうね」

「……あのさあ、いい加減にしてくれる?」


 ナツミは身体を起こすと海音を睨んだ。


「何しに来たのか知らないけど酔っ払いのウザ絡みは――」

「今日ね、蓮華はデートなんだって」

「……は?」


 いきなり聞きたくもない名前が飛び出してナツミは思わず眉を寄せる。しかし構わず海音は「あんたの好きな子と夜のデートなんだってさ」と嘲るように笑った。


「――いつもの公園で、でしょ?」

「違うよ。今日は冬葉さんの仕事が終わったら駅で待ち合わせなんだって張り切って出掛けて行ったんだから」


 ――ああ、だから。


 今日の冬葉はやけに張り切って仕事をしていた。てっきり今日もいつものようにあの子と会うのが楽しみで頑張っているのかと思っていた。しかし、どうやら違ったようだ。


「取られちゃうんじゃない? あんたの好きな冬葉さん。わたしが言うのもなんだけど蓮華って顔も性格もいいし、才能だってあるしさ。これからきっと――」


 パンッと乾いた音が静かな部屋に響き渡った。右手がジンジンと痛む。ナツミはハッとして頬を押さえる海音に視線を向けた。


「――痛い」

「っ……。あんたがひどいこと言うからでしょ」

「本当のことだよ」


 頬を押さえたまま彼女は低い声で言う。ナツミは思わず彼女の両肩を掴んだ。


「いい加減に――」

「取られちゃうよ。蓮華のこと」


 顔を俯かせながら言った海音の言葉に、ナツミは急激に頭が冷えていくのを感じた。


「……何言ってんの?」

「蓮華、取られちゃう。あの子に」

「あんた、やっぱり――」

「そういうのじゃない」


 言いかけたナツミの言葉を海音ははっきりと否定した。そして顔を上げると潤んだ瞳でナツミを見上げる。


「そういうのじゃない。わたしは蓮華に恋愛感情はない。それなのにさ、そう感じちゃうんだよ。蓮華が取られちゃうって……」

「で、呑んできたの?」

「一人で家にいるのは無理」

「なんでここに?」

「知らない。気づいたら来てた」


 ナツミは深くため息を吐くと彼女の肩から手を放した。そしてボスンと彼女の隣に腰を下ろす。それを待っていたかのように海音はナツミの肩に寄りかかってきた。


「どれくらい呑んだの?」

「覚えてない」

「じゃあ、どこで呑んだの」

「公園」

「公園?」

「いつもあの子が冬葉さんと会ってる公園」

「バカじゃん」

「うるさい」


 ズズッと鼻を啜る音がする。寄りかかってくる海音の温もりは温かくて、その温もりを心地良く思ってしまう自分が嫌で、しかしそれを振り解くことのできない自分にも呆れてしまう。


「ナツミはなんで慌てないの?」

「なにが」

「だって冬葉さん、蓮華とデートしてんだよ?」

「そうだね」

「嫌じゃないの?」

「嫌だよ。でも、冬葉の決めたことならわたしは口を出せないでしょ」


 そのとき、ふいに肩の重みが軽くなった。視線を向けると海音が泣き顔のままナツミのことを見つめている。


「……なに」

「それでいいわけ? ナツミは」

「なにが」

「好きなんでしょ? 冬葉さんのこと」

「好きだよ」


 そのはずだ。自分は冬葉のことが好きで、蓮華のことが嫌い。


「でも、冬葉の気持ちはわからないから」

「だからそうやってクールぶってるの?」

「なにそれ」


 ナツミは息を吐きながら笑ってしまう。


「もし冬葉さんが蓮華を選んだら、あんたまた一人じゃん」


 そうだ。だが、別にそれはそれで構わない。好きな子に好きな子ができた。それはきっと良いことで自分がその相手に選ばれなかっただけ。

 悔しいとか辛いとか悲しいとか、きっとそのときはそんな感情も生まれるのだろう。しかし別にそれが怖いとは思わない。そうなったところで何も変わらないと分かっているのだ。冬葉と出会う前も出会ってからも、ずっと自分の中には悔しいとか辛いとか悲しいとか、そんな感情が渦巻いているから。

 あの日から、ずっと。

 ナツミは海音に微笑むと「あんたも一人になっちゃうね、海音」と床に落ちていたタオルを拾い上げてテーブルに置いた。


「人生を変えてまで尽くした子がいなくなっちゃうからそんなに取り乱してんだ? ダサくない? あんた、意外と依存体質だったんだね」

「依存……」

「そうでしょ。あんたはあの子に依存しすぎ……。依存するならさ、わたしにすれば良かったのに」


 つい、そんな言葉が出てしまう。


「――ナツミ。わたし、どうすればいい?」


 力ない言葉と共に再び肩に温かな重みを感じる。


「蓮華にはきっともうわたしは必要ない。冬葉さんが蓮華を選んでも選ばなくても、あの子はもう前に進むことをやめない」

「そうなんだ」

「なんか、また新しく曲作り始めてた。ギターもすごい練習してる」

「また始めるつもりなんだ?」

「そう。わたしに相談もなく……」

「へえ」

「わたしはもういらないみたい」


 ナツミは答えずにただぼんやりと真っ暗な画面をこちらに向けるテレビを見つめた。

 ざまあみろ、とは思えなかった。だって知っているから。海音がどれだけ蓮華のことを大切に思っているか。どれだけの覚悟で彼女を助けようとしていたのか。そしてきっと蓮華もその想いを知っているはず。

 あの子が海音を必要としなくなる? そんなことあるはずがない。そんなことナツミにすらわかるのに海音にはわからない。それほど彼女は蓮華の為だけに生きてきたのだ。


 ――やっぱり一緒だ。


 冬葉と一緒。いや、違うのか。冬葉が海音と一緒なのか。思ってから小さく息を吐いた。


 ――なんでわたし、冬葉と海音を比べて重ねるんだろう。


「――ナツミ」

「なに」

「今日、泊まってもいい?」

「あの子が心配するんじゃないの?」

「もう外泊の連絡はしてる」

「わたしが断ったらどうするの」

「ネカフェ」

「せめてどこかのビジホに泊まりなよ」


 しかし肩の重みは動かない。以前の海音ならこんなにナツミに甘えたりはしなかった。こんなに弱みを見せたりはしなかった。それほどまでに堪えているのだろうか。あの子が前に向かって進み始めたことに。


 ――わたしはナツミのこと好きだよ。


 あの日、海音はそう言った。今もまだナツミのことが好きだと。だから来たのか。ナツミに会いたくて。ナツミの気持ちも考えず、ただ自分を慰めたくて自分勝手に……。


「海音さ」

「ん?」

「そんなずるい女だったっけ」

「……そんなずるい女だよ、わたしは」


 海音はそう言って息を吐くようにして笑い、ゆっくり身体を起こした。


「もしナツミが家に入れてくれなかったら、もし家に入れてくれても家具が全部変わってたら、もしさっきナツミを引っ張ったときにわたしのことを拒絶したら、そしたらすぐに帰ろうって思ってた」


 ――なにそれ。


「ナツミ」


 ふわりと海音が両手でナツミの身体を包み込んでくる。


「今日、泊まってもいい?」


 懐かしい温もりと懐かしい柔らかさ。それを拒否できないのは疲れているからだろうか。人の温もりが欲しいと思ってしまっているからだろうか。


 ――わたしは冬葉が好きなはずで。


 しかし冬葉と海音を重ねて見ていた。


「酔っ払いはお断りなんだけど」


 喉から絞り出した声は弱々しく掠れていた。


「じゃあ、ナツミも酔っちゃえばいいよ。今夜だけ」


 首元に海音の吐息を感じる。


 ――冬葉は今日、あの子と一緒にいるんだ。だったら……。


 ナツミは目を閉じると無言のまま彼女の背に手を回していた。

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