第49話
「ナツミさん、お部屋って何階なんですか?」
タクシーを下りた冬葉がそう言ってナツミを振り返る。きっと彼女は疑いもしていないのだろう。ただナツミの家に食事に来ただけ。そう思っているに違いない。彼女は純粋で疑うことを知らないから。
「七階だよ」
ナツミが答えると冬葉は「へー、すごい!」と感嘆の声を上げた。
「最上階じゃないですか」
「そんなすごくもないよ。オートロックでもないし」
「でもエレベーターあるし、いいなぁ。うちのアパートとは全然違いますね」
「あれ? 冬葉の部屋って何階だっけ」
「二階です」
その答えを聞いてナツミは思わず笑ってしまう。
「そのくらいなら階段の方が早くない?」
「あ、たしかにそうですね」
そう言って無邪気な笑みを浮かべる冬葉をナツミは微笑みながら見つめた。
初めて見たときは大人しそうな子だなと思った。実際、話してみても大人しい印象は変わらなかった。常に控えめで自分を主張するわけでもない。しかし、大人しい中にも芯がある。そう思ったのは彼女が誰にも頼らず一人で慣れない仕事をこなしていたからだ。
中途採用という状況が彼女に誰かを頼る気持ちを押し込めてしまっているのかもしれない。そう思ってナツミは彼女に声をかけた。すると彼女はびっくりしたような顔をしたが、すぐに申し訳なさそうな表情を浮かべたのだ。
安堵したわけでも、苛立った様子でも怯えた様子でもない。ただただ申し訳なさそうな表情を。
――違うのかも。
その表情を見てナツミは思った。彼女は別に中途で入ったから誰にも頼ろうとしなかったわけではない。プライドが高いわけでも、コミュニケーションが苦手というわけでもない。彼女は誰かに頼ることができないタイプの人間なのだ。
直感的にそう思ったのはあの申し訳なさそうな顔が海音と重なったから。あの日、別れを告げにきた彼女の顔に。
それが彼女に興味を持ったきっかけだったのかもしれない。そして話せば話すほど彼女のことが気になった。
最初は距離があった。当然だ。職場の先輩と後輩。ただそれだけの関係なのだから。じゃあ、どうすればもっと近い関係になれるだろう。どうしたら上辺ではない彼女の本当の言葉が聞けるだろう。どうしたら愛想笑いではない彼女の笑顔が見られるだろう。いつの間にかナツミはそんなことばかり考えるようになっていた。
そして少しずつ冬葉との距離が近くなってきた。そんな気がしていた頃だ。彼女から『恩人さん』の話が出たのは。
驚いた。冬葉と出会って二ヶ月。彼女から職場の同僚や家族以外の話を聞いたことはなかった。驚いたと同時に苛立ちも覚えた。なぜなら彼女は一生懸命に『恩人さん』へのお礼を考えていたから。まるで頭の中はその人でいっぱいだと言わんばかりに、楽しそうに。
そんな彼女を見ていて胸に沸き起こった感情は確かに覚えがあるものだ。揺るぎない感情だった。しかし、果たしてそれは本当に彼女に対しての気持ちだったのか。それとも……。
「ナツミさん?」
エレベーターを下りた先で冬葉が不思議そうに振り向いた。ナツミは微笑んで「一番奥だよ。部屋」と歩き出す。
「角部屋なんですね。最上階で角部屋っていいなぁ」
「そんな変わらないと思うよ。日当たりがちょっと良いくらい」
ナツミは笑いながら部屋の鍵を開けると「どうぞ」と玄関の電気を点ける。
「お邪魔します」
「緊張しないでいいよ。誰もいないんだし」
「はい。でも、誰かの家にお邪魔するのって初めてなので」
「初めて?」
「わたし友達いなかったから」
笑いながらそう言った冬葉は緊張した様子で部屋に上がった。
そういえばいつだったか以前も雑談の中でそんなことを言っていた。友達らしい友達はいなかった、と。冬葉の家庭の事情は聞いていたし、妹のためにずっと頑張ってきたことも紗綾から聞いて知っている。
妹の幸せのために自分のことは全部後回し。自分が我慢すればすべて丸く収まる。そんな自己犠牲的な考えすらも彼女と重なってしまう。
「――遠慮しないでソファにでも座って待ってて。すぐ作っちゃうから」
ナツミがテレビをつけながら言うと冬葉は慌てた様子で「いえ! 手伝いますよ!」とキッチンに視線を向ける。
「お皿の準備とか、それくらいならわたしでもできますし」
「いいから。ほんと焼くだけだからさ。すぐできるよ。あ、待ってる間にビールでも呑む?」
「……冷蔵庫にはビールを冷やす隙間もないって言ってませんでした?」
「今日、呑む分くらいはちゃんと冷やしてます」
ナツミが笑うと冬葉もまた笑った。
「じゃあ、ナツミさんと一緒に食事のときにいただこうかな」
「お? 意外な返事」
「え?」
「お酒呑まないのかと思ってたから。ほら、歓迎会のときもけっこう無理してたでしょ?」
「あー、まあ。バレてました?」
「呑み方が慣れてないなぁって感じだったからね」
ナツミの言葉に冬葉は苦笑する。
「たしかに普段は呑まないですけど」
「ふうん。じゃ、今日は特別?」
すると冬葉は曖昧に笑ってソファに座った。
――特別、か。
どういう気持ちで彼女はここに来たのだろう。彼女のことを好きだと言った女の家にいきなり呼ばれてどんな気持ちだっただろう。嫌ではなかったのだろうか。不安はなかったのだろうか。彼女の様子はいつもと特に変わらない。
いつも通りの柔らかな笑顔。
心地良く優しい言葉。
以前より距離が縮まっていることは間違いない。しかし、その瞳の奥に隠された気持ちは分からない。
――どうして海音と会わせたりしたんだろう。
ナツミは考えながらエプロンを着けると冷蔵庫から下準備を済ませた料理を取りだして手早く準備をしていく。
あの日、海音と話してからずっと心はモヤモヤしたままだ。それでも、もう海音と関わることがなければきっとこのモヤモヤもそのうちどこか消えてなくなるだろう。そう思っていたのに。
フライパンを温めながらナツミは小さくため息を吐いて後ろを振り返った。ソファには姿勢良く座る冬葉の姿がある。その姿が海音と重なる。
次第に熱を帯びてきたフライパンに視線を戻し、ナツミはぼんやりと二日前のことを思い出していた。
金曜の夜、もうすぐ日付が変わるという頃にインターホンが鳴った。酔っ払いが部屋を間違えたのだろう。そう思って無視していたのだがインターホンは鳴り止まない。あまりにもしつこいので警察でも呼ぼうかとインターホンのモニターを見ると、そこには海音の姿が映っていた。
ナツミは眉を寄せながら応答ボタンを押す。
「――どちら様ですか」
「ひどいなぁ。入れてよ、ナツミ」
「なんで」
反射的に言い返すと彼女は黙り込んでしまった。しかし帰る様子はない。しばらく無言の時間が続く。
「――入れてよ」
ふいに聞こえたのはか細い海音の声だった。俯いた彼女の表情はモニター越しにはよく見えない。しかし明らかにいつもの彼女ではない。あの日、ファミレスで会ったときの彼女でもない。弱々しい海音の様子にナツミはため息を吐くと玄関に向かい、気づけば彼女を迎え入れていた。
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