第十二章
第48話
月曜日。紗綾が言っていた通り明け方から雨がシトシトと降り始め、それは昼を過ぎると本降りへと変わっていた。スマホで天気予報を確認すると、どうやら今週はずっと雨のようだ。
「――もう梅雨に入るのかもね」
ふいに後ろから声がして冬葉は驚いて振り返る。そこには藍沢が冬葉のスマホに視線を向けながら立っていた。
「あ、すみません。仕事中に……」
「いいよ。それくらい」
藍沢はそう言って笑う。なんだか久しぶりに藍沢のこういう表情を見た気がする。しかし、やはり少し元気がない。心なしか顔もほっそりした気がする。
思いながら冬葉がじっと藍沢を見つめていると彼女は「え、なに。顔に何かついてる?」と頬に手をやりながら首を傾げた。
「ああ、いえ。少し痩せました?」
「ん、そうかな。計ってないからわかんないけど、ダイエット成功?」
今までと変わらない口調に少し安堵しながら「最近ずっと忙しそうでしたもんね」と冬葉は微笑んだ。
「そうだね。予想外のトラブルが続いてまいっちゃった」
「え、そうだったんですか?」
「そう。冬葉の仕事とは別の案件でちょっとね、でもだいぶ落ち着いたからさ。もうわたしの出番はない……はず」
藍沢は言いながらチラッと課長の席の方へ視線を向けた。そこは空席だ。そういえば今日は朝の朝礼以来、課長を見た覚えがない。藍沢は笑みを引き攣らせながら「まあ、大丈夫でしょ」と自分に言い聞かすように言った。そしてその笑みをふいに消して冬葉を見つめる。
「――元気してた?」
「え?」
「いや、先週あんまり話もできなかったから」
彼女はわずかに視線を俯かせながら言った。
「元気ですよ。わたしよりも藍沢さんが大変で……」
「……まあ、うん。そうかな」
なぜか彼女は誤魔化すように笑うと、少し顔を冬葉に近づけて「今日の夜ってさ、空いてる?」と囁いた。
「大丈夫ですけど」
「そ。じゃ、今日は定時退社で」
「定時退社?」
「うん。がんばって今日の仕事終わらせてね」
藍沢はニッと笑みを浮かべた。
「はい。でも、藍沢さんは大丈夫ですか? 何か手伝えることあったら言ってください」
冬葉が言うと彼女は「大丈夫。死ぬ気で終わらせるから」と軽く手を振って自分の席に戻っていった。
――よかった。いつも通りだ。
微笑みながら冬葉は作業に戻る。藍沢は少し痩せた気はするが、様子は以前と変わらない。避けられているわけでもなかったようだ。
きっと、ただ忙しかっただけ。
――食事に行くのかな。
どこに行くとも言っていなかったがきっとそうだろう。であればもう少し大人っぽい服を選んでくれば良かった。藍沢と並んで歩くのにこんな安物の格好では不釣り合いに思えてしまう。
そんなことを考えながら冬葉は窓の方へ視線を向ける。雨はさらに強さを増しているような気がした。
予想通りというべきか、雨は定時を迎える頃には警報が出るほどの土砂降りとなっていた。そのおかげだろうか。会社指示で今日は社員全員定時退社の命令が下っていた。
「いやー、ラッキーだったね」
職場のエレベーター内で藍沢は笑いながら言う。
「警報出なかったら体調不良で帰るところだった」
「え、大丈夫ですか?」
「ウソだよウソ。帰るためのウソ」
藍沢は肩をすくめた。
「冬葉が痩せたって言ってくれたから体調不良も通用するんじゃないかなって」
彼女の言葉に冬葉は「ウソですか」と苦笑する。
一階に着いてエレベーターの扉が開くと、ロビーには男性社員たちがなぜか帰ることもせずに集まっている様子。冬葉と藍沢は顔を見合わせながらエレベーターを出た。
「どうしたの? みんなして集まって」
「あー、藍沢さんと桜庭さん。それがどうやら電車が止まっちゃったみたいで」
「え、うそ」
「ほんとです。ほら」
社員の一人が見せてくれたスマホには電車の運行状況が表示されていた。そこには最寄り駅の路線運行状況に一時運休とある。
「一時運休ってことはそのうち動くんじゃない?」
藍沢の言葉に社員は「それが」と今度は天気予報のアプリを開く。そこに表示された雨雲レーダーではこれからずっと土砂降りが続きそうな雲の動きだった。
「雨、少しはマシになるかもですけど……」
「んー、動くの待ってたら深夜になりそうだね」
「そうなんですよ。バスかタクシーで帰るしかないって感じっすね」
「ふうん。他の子たちは?」
「女子社員はみんなタクシーなり家族の車なり彼氏の車なりで帰っちゃいました」
「なるほど。君たちはあぶれ者か」
「ひどいなぁ。どの手段で帰ろうか悩んでただけなのに」
社員は笑ってそう言うと藍沢から冬葉に視線を移す。
「たしか桜庭さんも電車でしたよね?」
「はい。そうなんですけど――」
「あー、大丈夫。桜庭さんはわたしが送っていくから」
「え、藍沢さんって車でしたっけ?」
「んなわけないじゃん。タクシーだよ。タクシー」
言いながら彼女はスマホを開いた。タクシーを呼んでいるのだろう。
「あ、だったらみんなで乗合って形にしません?」
「乗合って、いったい何人で乗る気よ」
藍沢は笑うと冬葉の肩に手を置いた。
「わたしは桜庭さんと乗合するから、君たちは男同士で乗合しなさい」
「ダメかぁ。残念」
「わたしか桜庭さんでちょっと華のある空間にしようとしてんの、バレバレだって」
「なに言ってんですか! そんなことこれっぽっちも思ってませんよ! なあ?」
「そうですよ!」
社員たちは口々に違うと言っているが、その目は泳いでいる。冬葉が苦笑していると「まったく」と藍沢がため息を吐いた。そのとき玄関口にタクシーが停まった。
「あれ。もう誰かタクシー呼んだ?」
「わたしが呼んだ。近くに走ってたみたいね。今日は運が良い」
藍沢は笑うと「じゃ、お疲れ。君たちもさっさとタクシー呼んで帰りなよ」と言ってから冬葉の背中を軽く押した。
「行こう?」
「あ、はい。あの、すみません。お先に失礼します」
冬葉は慌てて社員たちに挨拶をしてから藍沢と共にタクシーに乗り込んだ。
「まったく……」
タクシーが走り出して藍沢は再びため息を吐く。
「まさか電車が止まるなんてね」
「ほんとですね。あの、良かったんですか?」
「ん? なにが?」
「みなさんと一緒に乗らなくて」
「いいよ。たしかあの人たちの家って逆方向なはずだから。料金割り勘でも計算めんどくなるでしょ」
「あ、なるほど」
冬葉は頷きながらも首を傾げた。
「えっと、それで今日はこれからどこへ?」
食事かと思っていたが警報が出ているほどの雨だ。もしかすると早々に今日の営業を終わらせる店もあるのではないか。そう思ったのだが、藍沢は「家だけど」と言った。
「え……?」
「あれ? 言ってなかったっけ? たしかメッセージ――」
言いながら彼女はスマホを見て「あー」と苦笑した。
「送ってなかった。ほら」
彼女が見せてくれた画面には『今日、わたしの家でご飯食べよう』という入力途中のメッセージが表示されている。
「そういえば返信来ないなぁって思ってたんだよね。送ってなかったか……」
藍沢は軽く笑ったがそのまま深く息を吐き出した。
「ごめん。冬葉の都合もあるのにね。月曜だし、夜遅くなってもしんどいだろうし……。嫌だったらこのまま冬葉のアパートまで送ってから帰るけど」
そう言った藍沢の表情はさっきまでとは違って心細そうだった。
いきなり家に行くのはたしかに勇気がいる。しかし、きっと藍沢がそうしようと思ったことには意味があるはず。冬葉も藍沢と話をしようと思っていた。二人きりになれるのならしっかりと話もできるかもしれない。
「大丈夫です。お邪魔させてください」
「だよね。じゃ、このまま……。え、大丈夫なの?」
藍沢は目を丸くして高い声を上げる。冬葉は笑いながら頷いた。
「でも一つだけ心配なことがあって」
「なに? あ、大丈夫だよ。帰りのタクシー代はわたしが出すし」
「いえ。さすがにそれは自分で。じゃなくて、わたし料理できないですよ?」
藍沢はきょとんとした顔をしたが、すぐに安心したように笑った。
「それは大丈夫。わたしが作るし。っていうか、もうほとんど出来てるんだよね」
「え、そうなんですか?」
「うん。あとは火を通すだけっていう状態だから。冬葉って好き嫌いあったっけ?」
「いえ。何でも食べます」
「そっか。良かった」
「でも、どうして――」
「んー?」
藍沢は少し考えるようにしてから「ふるさと納税」と呟いた。
「え?」
「ふるさと納税でさ、お肉と野菜を頼んだのね。そしたら思ってたよりも大量に届いちゃって冷蔵庫がパンパンに……」
「あー、なるほど」
そういえば叔母も以前そんなことを言っていたことがあったなと思い出す。こんなに一気に届くとは思っていなかった、と毎日が豪勢な夕食になっていたことがあった。そのときのことを思い出して思わず微笑んでいると藍沢が「どうしたの?」と不思議そうに首を傾げた。
「ああ、いえ。以前、叔母も似たようなことで困ってたなぁって」
「そっか。やっぱあるあるだよね」
彼女は笑うと「それで処理を手伝ってほしいんだけど、良かったかな?」と続けた。
「もちろんです。といっても、わたしじゃあまり戦力にならないかもですけど」
「ううん。嬉しいよ。冬葉が来てくれるだけで嬉しいから――」
藍沢は言いながらもなぜかその表情は浮かない。
「ナツミさん?」
思わず声をかけると彼女はハッとしたように冬葉を見た。
「ナツミさん、今日も忙しそうだったし疲れてますよね。食材が日持ちしそうなら明日にしますか?」
「ううん。大丈夫だよ。早く冷蔵庫のスペース空けないとビールも入らなくてさ。ほんと困ってるから今日がいいな」
藍沢は笑ってから窓の外を見る。冬葉も窓の向こうに視線を向けた。大粒の雨は勢いよく道路を打ち続けている。
「――雨、ほんとにやまない感じだね」
「ほんとですね。明日の朝、電車動いてますかね」
「どうだろ」
呟くように藍沢は言って口を閉ざした。彼女はずっと窓の外を見つめたままだ。その横顔が沈んでいるように見えるのは雨のせいだろうか。それとも疲れて見えるせいか。
特に会話のない二人を乗せたタクシーは土砂降りの雨の中、ゆっくりと藍沢が住むマンションの入り口に到着した。
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