第47話

「今日はありがとうございました。蓮華さん」

「こちらこそだよ。紗綾ちゃんは今何してるの? お風呂?」

「いえ」


 冬葉は微笑みながら布団にくるまって穏やかな寝息をたてている紗綾に視線を向ける。


「寝てます。帰ってご飯を食べたら、もう眠いって言って」


 あれから三人で食事に行き、そのままゲームセンターに行ったりボウリングに行ったりして帰宅は夜になっていた。

 帰宅した紗綾は服を着替えると食事もそこそこに布団に入ってしまった。疲れていたのだろう。まだ蓮華に対しての態度は固い紗綾だったが、それでもいつも以上にはしゃいでいたのはその表情を見ればわかった。


「きっと嬉しかったんだと思います。蓮華さんと仲良くなれて」

「そうかな。なんとなくまだ距離を取られてる感じがしたんだけど」

「それはしょうがないですよ」


 冬葉は笑う。しかし蓮華にはわからないようで「なんで?」と不思議そうな声で言った。


「たぶん紗綾、蓮華さんのファンですから」

「え、そうなの? でも違うって言ってたよ?」

「そこは素直になれなかったんですよ。紗綾、ちょっと意地っ張りなところもあるし」

「ふうん……。そこも冬葉さんと似てたりするのかな」

「わたし?」


 聞き返すと「うん。紗綾ちゃん、ふとした仕草とか返事の仕方が冬葉さんに似てるから」と蓮華は笑う。冬葉は少し考えてから「もしかして――」と、とあることを思い出した。


「カラオケの話をしたときにわたしを見て笑ったのってそれですか?」

「うん、そう。紗綾ちゃんの納得の仕方が冬葉さんみたいだったから面白くて」

「それ、たぶん紗綾に言うと嫌な顔しますよ」

「そうかな。そうは思えないけど」


 蓮華は言ってから柔らかな口調で「紗綾ちゃんはお姉ちゃん大好きだから」と続けた。


「心配性なだけですよ」

「大好きじゃなきゃ心配しないよ」


 蓮華の言葉に冬葉は微笑んだ。


「――ねえ、冬葉さん」


 蓮華はゆっくりと穏やかな口調で冬葉の名を呼ぶ。


「はい」

「ありがとう」


 突然の感謝の言葉に冬葉は「え?」と首を傾げた。


「何がですか?」

「わたしの歌を好きだと言ってくれて」

「それは本当のことだから感謝されることじゃないですよ」


 冬葉は笑ったが蓮華は「ううん」と息を吐くように言った。


「だって冬葉さんがわたしの歌を好きだと言ってくれなかったら、わたしはきっと新しく曲を作ったりなんかしなかった。あの動画を上げたりもしなかった。冬葉さんがいなかったら、たぶんわたしは一生あの公園で真夜中に鼻歌を歌って過ごすだけだったと思う」

「そんなことは――」

「あるよ。あの日、冬葉さんと出会うまでわたしは生きることをやめてたから。誰もいない深夜の公園でぼんやりと過ごして……。何も考えず、何もやらず、ただあの小さな夜の世界に閉じこもってた。だから、ありがとう。冬葉さん。わたしの前に現れてくれて。わたしの歌を好きだと言ってくれて。本当に、ありがとう」

「蓮華さん……」

「なんて、こんな言葉はちゃんと結果を出してから言うものだよね」


 彼女は笑うと「でも、言いたかったから」と満足したように息を吐いた。


「ありがとう」


 噛みしめるように言った彼女の言葉に冬葉は「わたしは――」と言いかけて口を閉ざす。

 自分はまだ何も返せていない。彼女と出会えて変わった自分がいる。それは確かだ。だが、彼女には何も返せていないまま。真っ直ぐに気持ちを伝えてくれる彼女に返したい気持ちは確かにあるのに。


「じゃあ、また公園で、かな」


 ふいに蓮華が口を開く。その声は優しく、まるですべてわかっているとでも言うような穏やかな声。


「……そう、ですね。また金曜の夜、日付が変わる頃に公園で」

「うん。それじゃ、おやすみ。冬葉さん」

「はい。おやすみなさい。蓮華さん」


 静かに通話は切れ、冬葉はスマホを持った手を下ろした。そして紗綾に視線を向ける。いつの間に寝返りを打ったのか、布団が少しずれてしまっている。


 ――わたしは……。


 紗綾に布団をかけ直しながら考える。まず自分がすべきことを。

 この気持ちが何なのか。

 誰に対するものなのか。

 それを知るために何をするべきなのか。


「……でも本当にわかんないんだ。どうしたらいいんだろうね」


 ポンポンと紗綾の布団を軽く叩いてやりながら呟く。紗綾は小さく唸ったが、すぐにまた穏やかな寝息を立てて幸せそうに眠り続けていた。




 翌朝、目覚めるとすでに紗綾の姿は布団にはなかった。


 ――帰っちゃったのかな。


 まだぼんやりする頭で思いながら布団から抜け出したとき、バスルームのドアが開いた。そして「あ、やっと起きた」と肩からバスタオルをかけた紗綾が出てきた。


「シャワー浴びてたの?」

「うん。帰る前に浴びておこうと思って。お姉ちゃんは寝坊だね」

「え、ウソ。そんなに寝てた?」

「寝てた。もう昼前だよ」


 笑いながら紗綾はテーブルに置いていたスマホを取るとその画面を冬葉に見せた。たしかに表示された時刻は十一時三十五分。すっかり寝過ごしてしまったようだ。


「起こしてくれたら良かったのに」

「お姉ちゃんがこんなに熟睡してるの珍しいから、そっとしといた」


 たしかに冬葉は昔から眠りが深い方ではなかった。眠っていても誰かが動く気配がすれば目が覚める。しかし今日は真横で寝ていた紗綾が起き出してもまったく気づかなかった。


「昨日が楽しかったからかな」


 冬葉が苦笑すると紗綾は「ほんとだね」と笑った。


「わたしも帰ってあんなすぐ寝ちゃうとは思わなかったよ」

「紗綾も楽しかったんだ?」

「まあ、そりゃね」

「蓮華さん、良い人だったでしょ?」

「思ってたイメージとは違ってた。あと――」


 紗綾は言いかけたが迷うように口を閉ざす。冬葉は首を傾げる。


「あと?」

「――すごく綺麗だった」


 少しだけ照れたように紗綾は言う。冬葉は笑って「だよね。わたしも何度も見惚れちゃうもん」と頷いた。紗綾はそんな冬葉を見ながら何か言いたそうな表情を浮かべていた。


「ん、なに?」

「……なんでも。それより早く着替えたら? あ、洗濯はもう終わってるからね」

「え、そうなの? ありがとう」

「明日は雨みたいだからやっといた。お姉ちゃんが着替えてる間にお昼ご飯も作ってあげるから」

「そんな着替えるのに時間かからないから大丈夫だよ。わたしが作るって」

「いいよ。わたしが作るから待ってて」

「……じゃあ、お言葉に甘えて」

「素直でよろしい」


 紗綾は笑うとキッチンに向かう。冬葉は微笑みながらその背中を見つめるとゆっくりと身支度を開始した。

 紗綾が作ってくれたのはチャーハンだった。それも野菜がいっぱい入った特製チャーハン。しかし、たしか冷蔵庫に野菜類はほとんど入っていなかったはずだ。


「――紗綾、もしかして買い物まで行ったの?」

「行ったよ。起きて朝ご飯を食べて洗濯と掃除をして、それから買い物に行ってシャワーを浴びたところでお姉ちゃん、やっと起きたの」

「ウソ……」

「ほんと」

「そんなに寝てたなんて……」


 冬葉が額に手をあてると紗綾は笑った。


「昨日はわたしよりもお姉ちゃんの方がはしゃいでた感あったからね」

「そんなことないでしょ」

「あるよ。あんなに楽しそうなお姉ちゃん、わたし初めて見たかも」

「――そう?」


 冬葉は首を傾げる。そんな冬葉を見ながら紗綾は「お姉ちゃんさ」と真剣な口調で言った。


「蓮華さんのこと、好きなの?」


 言われて冬葉は手を止めた。紗綾はまっすぐに冬葉を見つめている。


「――どうして?」

「なんとなく、そう思ったから」


 彼女は冬葉から視線を逸らさず、何かを確かめるように見つめながら続けた。


「さっきも言ったけど、お姉ちゃんのあんな楽しそうな顔は初めて見た」

「ナツミさんと遊びに行ったときも楽しかったよ?」

「うん。でも、なんかあの時とはちょっと違う感じだった」

「どう違った?」

「わかんないけど、なんか雰囲気が――」

「教えてよ。お姉ちゃん、どう違ったの?」

「――お姉ちゃん? どうしたの」


 冬葉はハッと我に返ると「ごめん、なんでもない」と笑って誤魔化す。

 どうしたのだろう。自分でもわからない。しかし、冬葉にはナツミと遊びに行ったときと昨日の自分の違いがわからない。どちらも楽しかったのだ。紗綾も一緒で、紗綾も楽しそうで嬉しかった。

 冬葉の気持ちはあの日も昨日も同じだったはず。それでも紗綾には違うように見えたと言う。その違いは一体何なのか知りたい。


「お姉ちゃん、大丈夫?」


 紗綾が心配そうに冬葉の顔を覗き込んでくる。冬葉は「大丈夫。ごめんね、変なこと聞いて」とヘラッと笑った。


「別にいいけど……」


 紗綾は心配そうな表情のまま「わたしね」と続けた。


「お姉ちゃんがこれからどんな選択をしても応援する。だからわたしのことは気にせず自分の気持ちを最優先にしてね」

「紗綾……」


 紗綾は微笑むと「あと、進学するか就職するかはもうちょっと悩むことにする」と続けた。


「わたしの夢はもしかしたらすぐに叶っちゃうかもしれないからね。だからちゃんと自分のこれからのこと考えるよ」

「……それ、ちゃんとおばさんたちにも言ってよ?」

「わかってるって」


 紗綾は笑うと食事を続ける。冬葉も食事を再開しながらモヤモヤした気持ちが沸き上がってくるのを感じていた。


 ――わたしの気持ちを優先、か。


 その気持ちがわからない。どうすればわかるのだろう。自分にもわからない気持ちが紗綾には伝わっているのだろうか。だったらそれを教えてほしい。

 そう思うものの、きっと聞いても紗綾が心配するだけ。

 これはきっとツケが回ってきたのだろう。今までの人生、紗綾を幸せにしたいという想いを口実に自分の気持ちと向き合ってこなかったツケ。

 だからこんな年齢になっても自分の気持ちに気づくことができない。その手段がわからない。

 冬葉は晴れやかな表情を浮かべる紗綾に微笑みながら、情けない自分には落胆するしかなかった。

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