第46話
「じゃあ、改めて――」
蓮華はオレンジジュースを一口飲んでから口を開く。
「蒼井蓮華です。よろしく、紗綾ちゃん」
「……どうも。桜庭紗綾です」
相変わらず紗綾の態度は素っ気ない。それでも蓮華は安堵したように「よかった」と微笑んだ。紗綾は怪訝そうに眉を寄せる。
「今日、来てくれないかと思ってたから」
「約束は守ります」
「うん。それに、ちゃんとこうして話もしてくれてる。もし一言も口をきいてくれなかったらどうしようって思ってたんだ」
「……そんな失礼なことはしません」
「そうだよね。うん。ごめんね」
蓮華は謝りながらも少し嬉しそうだ。紗綾はそんな彼女を見てさらに怪訝そうな表情を浮かべた。
「どうして笑ってるんですか」
「どうしてって?」
「わたし、会話はしても姉の近くにあなたがいることを許したわけじゃありませんから」
「紗綾」
思わず冬葉は口を開いたが「冬葉さん」と蓮華から柔らかく止められてしまった。
「いいんだよ。大丈夫」
彼女はそう言うと「紗綾ちゃんはわたしのこと嫌い?」と紗綾に視線を移す。しかし紗綾は答えない。蓮華は続ける。
「紗綾ちゃんはわたしのこと知ってるんだよね?」
すると今度は紗綾は頷いた。
「いつから知ってくれてるのかな」
「いつからって……。たぶん、デビューから? 曲はデビュー曲から知ってる」
「そっか。すごい。古参さんだ」
そう言って蓮華は笑った。しかし紗綾は固い口調で「別にファンだったわけじゃないですから」と言った。
「ただテレビとか動画とかで見てただけで」
「うん。あの頃のわたしを知ってるんだよね。あの頃の、わたしじゃないわたしを」
蓮華の言葉に紗綾は眉を寄せた。
「何言ってるんですか? あれはあなたですよね」
「そうだね。でも、あれはわたしだけどわたしじゃなかったって今では思ってる」
蓮華はそう言うとまっすぐに紗綾を見つめながら「あの頃のわたしはどう見えてた?」と続けた。
「どうって……」
「紗綾ちゃんから見て、どんな人間に見えてた?」
「――どんなって」
紗綾は難しい表情で少し考えてから口を開く。
「……歌上手いし、ビジュもいいしクールだし、かっこいい感じ」
「でも?」
蓮華は表情一つ変えずに、まるで最初から分かっていたかのように紗綾に続きを促す。紗綾は少し戸惑った様子で「でも、人としては冷たそう」と言った。蓮華は頷く。
「だから当然だって思ったよね? あの騒ぎのことも。だから紗綾ちゃんはわたしに冬葉さんの近くにいてほしくないんだ。わたしが冬葉さんを傷つけるかもしれないから。あの子みたいに」
「……その通りです」
「うん。その通りだね」
蓮華はそう言うと力なく微笑んだ。
「わたしはひどいことをした。人として最低な事をした。もう過去のことだって済まされるようなことじゃない。当然だよ。わたしは人を殺したんだから」
「蓮華さん、でもあの子は――」
思わず口を開いた冬葉に蓮華は首を横に振った。
「彼女の命は確かに助かった。でも彼女の心はきっと無事じゃないんだよ。わたしの歌を好きになってくれて、それを支えにしてくれてた子の心を殺しちゃったんだ。最低……。いや、最低なんてもんじゃないよね」
蓮華は深くため息を吐く。そんな彼女を見つめて紗綾は「最低なのはそこじゃないと思います」と呟くように言った。
「え……?」
「最低なのは、何も自分の言葉で発表しないまま消えちゃったことじゃないですか」
その言葉に蓮華は目を見開いた。紗綾は続ける。
「ファンの子に対しての対応はネットに出回ってる情報の通りなんだろうなって思ってますけど、そのことに対して弁明? みたいなこと何もしてないですよね」
「それは事務所が――」
「あなたの言葉でちゃんとした事実を聞きたかったって言ってるんです」
「わたしの……?」
蓮華は困惑した様子で紗綾を見つめている。紗綾は小さく息を吐くと「あなたはその子だけじゃない、他のファンの子たちの気持ちも裏切ったんですよ」と言った。
「事実を言ってくれなかったから」
「事実は事務所が言った通りだよ。報道だって、あの頃はけっこうされてたと思うけど」
「でもあれはあなたの言葉じゃない。あなたは逃げたんですよね? 自分の言葉で真実を伝えることを」
「それは……」
「だからわたしは、またあなたが何かをしたときに同じことをして姉を傷つけないかって……。それが心配なだけなんです」
紗綾はまっすぐに蓮華を見つめながら言った。蓮華は僅かに眉を寄せる。
「同じこと……?」
「これからまた歌手活動再開するんですよね?」
「え、そうなんですか?」
思わず冬葉が声を上げると蓮華は「それは、まだわからないよ」と俯きがちに言った。
「でもネットではあなたの復帰説が出てる」
言って紗綾はスマホを開くとテーブルに置いた。SNSのタイムラインには確かに蒼井蓮華が歌手活動を再開するのではないかという内容が書かれている。蓮華はそれを見ると「ほんとだ。どうして……?」と呟いた。
「あの曲を発表したからですか?」
「でも、わたしは何もコメントも残してないのに」
「……もしかして気づいてないんですか? お姉ちゃんも?」
紗綾の言葉に蓮華と冬葉は視線を合わせる。しかし紗綾が何を言わんとしているのかわからない。
紗綾は「まあ、あんなコメントの中に埋もれてたらわかんないか」と呟くとスマホをタップして蓮華の動画チャンネルを表示させた。そしてコメント欄をスクロールしていく。
「どこら辺だったっけ……」
呟きながら紗綾はスクロールを続けてとあるコメントが表示されたタイミングで「あった、ここ」と指を止めた。
「これ、このコメント」
言われて画面を覗き込むと、そこには数日前に投稿された長文のコメントがあった。それを見て蓮華が「これ……」と呟く。そこにはこう書かれてあった。
『新曲、本当に嬉しいです。あの時のわたしの浅はかな行動であんなにも大事になってしまったこと、本当に申し訳なく思っています。何度も謝罪に来ていただいたのに大人の判断でお会いすることができなかったこともすみませんでした。わたしはもう回復していますし、当時はわたしの行動にも問題があったと今では深く反省しています。叶うのであれば、これからも蒼井さんのファンであり続けたいです。わたしはやっぱり蒼井さんの曲が、歌が大好きです。蒼井さんの復帰を心から願っています』
それはどう見ても、あの事件の当事者の言葉としか思えない。このコメントの後には当事者が許したんだから復帰するんじゃないのかといったコメントが並んでいた。
「これ、ほんとにあの子が?」
「一応、本人のコメントってことになってますけど。何度も謝罪に行ったこととか、多分本人しか知らないだろうし」
「そっか。あの子が……」
呆然とした口調で蓮華は呟くと「いいのかな」と続けた。
「わたし、許されてもいいのかな」
「……最初から許されてたんじゃないですか」
紗綾の言葉に蓮華はゆっくり視線を彼女に向けた。
「最初からあなたがちゃんと自分の言葉で、公の場でもこのチャンネルでもどこでもいいから真実を伝えていたら少なくともこの子には許されてたんじゃないかって思います。でも、あなたが逃げたから――」
「――そうだね。たしかに紗綾ちゃんの言う通り、わたしは逃げた」
蓮華は紗綾の言葉を継ぐように言う。そして呆れたように微笑んだ。
「逃げて、生きることもやめようとして、全部を手放して都合の悪いことは全部忘れて、何もかもをめちゃくちゃにした」
「え……」
今度は紗綾が目を見開いた。
「生きることもって……?」
蓮華は微笑んだまま「一度ね、生きることから逃げたんだよ、わたし。大切な姉みたいな人が救い上げてくれたから今はこうしてここにいる」と続けた。
「あの頃のわたしは子供で臆病だった。だからダメだった。でも、うん。そうだね。もう逃げないよ。冬葉さんを傷つけたくないから」
彼女は言って一度冬葉に視線を向けると「紗綾ちゃん」とその視線を紗綾に移した。
「わたしね、まだ復帰するとかまったく決まってないんだけど一からやり直してみようって思ってるんだ。わたしにはやっぱり歌しか取り柄もないし……。あの子が、それに何より冬葉さんがわたしの歌が好きだって言ってくれるから。だから、もう一度オーディションとか受けてみようと思ってる。もう二度と同じような間違いはしないし、もし何かあっても逃げたりはしない。投げ出したりもしない。約束するから」
「……絶対にお姉ちゃんを傷つけたりしませんか?」
「しないよ。もしそんなことをしたら紗綾ちゃんがわたしを殺してもいい」
「嫌ですよ。わたし犯罪者になんてなりません。お姉ちゃんが悲しむでしょ」
「たしかに。それはダメだね」
蓮華は笑う。そんな二人の会話を冬葉はどこかむず痒い気持ちで聞いていた。
「お姉ちゃん? どうしたの?」
冬葉の微妙な表情に気づいたのだろう。紗綾が首を傾げる。
「いや、ちょっとこう、くすぐったくて」
「なんで?」
「だって、二人ともわたしのためにって言ってくれるから」
「だってそうだもん」
「わたしの素直な気持ちだけど?」
紗綾と蓮華の声が被る。冬葉は深くため息を吐いた。紗綾はそんな冬葉を面白そうに見てから「ところで蒼井さんは」と蓮華に視線を戻した。
「蓮華でいいよ」
「でも――」
「わたしも紗綾ちゃんって呼んでるし」
「……じゃあ、蓮華さん」
「うん。なに?」
「蓮華さんはお姉ちゃんのこと好きなんですよね? そこまでお姉ちゃんの為にって言うからには」
「うん。好きだよ。告白もした。今は返事を待ってるところ」
「……ナツミさんのことは知ってますか?」
「知ってる。それも含めて冬葉さんの気持ちを待ってるところ」
蓮華は柔らかく微笑んで冬葉を見つめる。その視線を受けて冬葉は俯きながら身を小さくしてしまう。
彼女のこういう気持ちを真っ直ぐに伝えてくれるところが嬉しくもあり、恥ずかしくもあり、申し訳なくもある。
「ふうん」
紗綾は冬葉と蓮華を見比べて「じゃあ、いいか」と一人頷いた。
「いいんだ?」
蓮華が首を傾げると紗綾は「いいですよ」とジュースを飲みながら答える。
「わたしはお姉ちゃんが幸せになってくれたらそれでいいので。お姉ちゃんの気持ちにまでわたしがどうこう言う権利はないです」
「やっぱり、しっかり者の妹だね。紗綾ちゃんは」
蓮華はそう言うとカラオケのデンモクに視線を向けた。
「まだ時間ありますよね」
紗綾もデンモクに視線を向けながら言う。
「そうだね」
「歌いますか?」
「うーん、どうしよう。わたし最近の曲知らないし」
「……あなたの曲を聴きたいって言ったら、歌ってくれますか?」
紗綾が背筋を伸ばして蓮華に問う。
「昔の曲を?」
「はい」
「んー」
蓮華は少し考えてから「あ!」と思い付いたようにデンモクを操作し始めた。そしてすぐに「あった」と呟く。
「蓮華さん?」
「昔の曲はちょっとまだ気持ち的に歌えないんだけどさ、この曲なら歌えると思うよ」
言って蓮華が曲を選択する。ワンテンポ遅れて画面に表示されたのは、昨日観た映画のエンディングテーマ曲。
「この曲、もうカラオケに入ってるんですね」
「早いよね。これ、カラオケで歌うなら怒られないよね。ホントはちゃんとオリジナルで聴かせてあげたかったけど」
「え、この曲って映画の……?」
「あ、紗綾も観た?」
冬葉が聞くと紗綾は首を横に振った。
「でもこの曲、CMでよく聴くから」
「これ、蓮華さんが作った曲なんだよ」
「え……」
イントロが流れ始めて紗綾は自然と口を閉じた。それはきっと目の前の蓮華の雰囲気が変わったからだ。
さっきまでと同じ穏やかな微笑み。それでもどこか凜とした表情で歌い出した彼女の歌声は優しくて心を包み込んでくれるような暖かな歌声。初めてあの公園で聴いたときと同じ歌声。
歌に聞き惚れながらチラリと紗綾に視線を向ける。彼女は初めて蓮華の歌を聴いたときの冬葉と同じように呆然とした表情でじっと蓮華の歌に耳を傾けているようだった。
――もしかして、紗綾って蓮華さんのファンなのかな。
それも当時からのファン。違うと言っていたが、本当はそうなのかもしれない。もしそうならば紗綾のこれまでの蓮華に対する態度も納得できる気がする。
きっと紗綾は蓮華のことが嫌いだったわけではない。好きだったからこそ許せないことがあった。それだけだったのかもしれない。
目を輝かせて蓮華を見つめる紗綾に微笑みながら冬葉もまた蓮華へと視線を向ける。暖かな歌声を奏でる彼女はとても綺麗で、ここがカラオケボックスであることも忘れてしまうほどキラキラと輝いていて目を離すことができなかった。
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