第36話

「なに話してたの? 佐英と」


 冬葉が藍沢の向かいに座ると彼女は少し心配そうな表情で言った。


「ナツミさんが素敵な先輩だっていう話を」

「なにそれ」

「今度、高校時代のナツミさんの話を聞かせてもらう約束しちゃいました」

「えー……。変なこと言わないように圧かけておかなくちゃ」


 藍沢は苦笑しながら視線を塚本の方に向ける。すでに塚本は仕事に戻ったようでレジで接客をしていた。


「良い人ですね。塚本さん」

「……そうだね」


 彼女は頷いたが、その表情は浮かない。藍沢はメニューを冬葉の前に置いてから「あのさ、冬葉」と沈んだ口調で言った。


「なんで海音とわたしを会わせようと思ったの?」


 冬葉はメニューを見つめながら「……三朝さんが会って話したいって言ったから」と答えた。


「海音と仲良くなってたなんて知らなかった」

「仲良くなったというか……。以前、一度だけ蓮花さんと一緒にいる三朝さんと会ったことがあって。昨日も偶然スーパーで会って、それでちょっと話を」

「それであいつ、冬葉を巻き込んだんだ? 自分で誘うこともしないで」


 冬葉は顔を上げた。藍沢は無表情にテーブルに置いたスマホを見つめている。


「三朝さん、自分が連絡しても返信してくれないからって言ってましたよ」

「……まあ、そうだけど」


 彼女は少し口を尖らせて頷くとため息を吐いた。そんな彼女を見つめながら冬葉は「断ることもできたと思うんです」と言った。藍沢は視線を冬葉に向ける。冬葉は苦笑しながら「わたしが言うなって感じですけど」と続けた。


「そもそもわたしがナツミさんに連絡しなければ、このまま三朝さんと会うこともなかったわけですし」


 すると藍沢は「まあ、それはそうなんだけど」と微笑む。


「でも冬葉はそうした方がいいって思ったんだよね。きっと」

「え……?」

「だって冬葉、面白半分とか雰囲気に流されたりとかでそういうことしないもん」


 彼女はそう言うと微笑んだまま息を吐いた。


「わたしがずっと引きずってるって、きっとそう思ったんでしょ? 実際、その通りだし」

「ナツミさん……」

「わたし、ずるいからさ。逃げる癖ついちゃってて。一人だと絶対にあいつと会う勇気は出なかった。だから感謝してるよ、冬葉には。これでやっと自分の気持ちを吹っ切ることができそうな気がする」


 彼女はそう言うと視線を俯かせる。


「――だけど、あいつは今さらどんな話をしたいんだろうね」


 冬葉は何も答えることができず、ただメニューを見つめる。待ち合わせの時間にはあと一時間ほどある。先に飲み物だけでも頼んだ方がいいだろうか。


「わたしホットコーヒーにする。冬葉は?」


 ふいに藍沢が言った。冬葉は顔を上げる。藍沢は穏やかな表情を冬葉に向けていた。


「わたしも同じのにします」


 藍沢は頷くと店員を呼んで注文する。そして時間を確認すると「あいつ、わりと時間にルーズだから遅刻するかもね」と笑った。


「そうなんですか? あんまりそんなイメージないですけど」

「少なくともわたしと待ち合わせするときはだいたい遅刻してたね」


 藍沢は何か思い出したのか、眉を寄せて言った。しかし海音と話した感じではしっかりした人だったように思う。とても待ち合わせに遅刻するタイプとは思えない。そのときふと藍沢を見て冬葉は「もしかして」と苦笑する。


「え、なに?」

「いえ。もしかしてそれ、三朝さんが遅刻してたわけじゃなくてナツミさんが早く来すぎてたんじゃないかなって思って」


 現に今日もこんなに早く待ち合わせ場所に来ている。冬葉との待ち合わせのときも先に着いていたのはいつも藍沢だった。彼女はわずかに首を傾げて「まあ、言われてみればそうだったかも?」と眉を寄せる。


「やっぱり」


 冬葉が笑うと藍沢も笑った。

 そのとき注文していたコーヒーが運ばれてきた。藍沢はそれを一口飲むと「そういえばさ」と口を開いた。


「あの子、また歌い始めたんだね」


 冬葉は驚いて目を見開く。


「見たんですか? 蓮華さんの動画」

「ああ、まあ、うん」


 彼女はバツが悪そうに視線を横に向けながら「チャンネル登録したままだったから」と言った。


「チャンネル登録……」

「昔ね、海音からあの子のことを初めて聞いたときに応援のつもりで登録してたの。ずっと忘れてたんだけど、新着が上がってるの気づいて」


 彼女はそう言うと「良い曲だね」と小さな声で続けた。冬葉は笑みを浮かべる。


「はい。とても」


 答えた冬葉に視線を向けて藍沢は悲しそうに微笑む。冬葉は首を傾げた。


「ううん。なんでもない」


 彼女は首を横に振ると「あいつも喜んでるだろうね」とコーヒーを飲みながら言う。


「そうですね。嬉しそうでしたよ。すごく」

「そっか……。大事な人がまた前を向いて進み始めたってことだもんね。ああ、だからあいつも勢いでわたしと話したいなんて思ったのかな」


 ――大事な人。


 たしかに海音にとって蓮華は大事な人なのだろう。その彼女の歌に背中を押された。それもあるかもしれない。しかし、きっと彼女が藍沢と話したいと思ったのは勢いだけではないはず。彼女はちゃんと藍沢と向き合おうとしている。そして自分の気持ちとも。

 昨日、カフェで話したときの彼女の表情を思い出してそんなことを思う。


「――ナツミさんは」


 言いかけて冬葉は口を閉じる。藍沢は不思議そうに首を傾げた。


「なに?」

「……いえ。なんでも」


 冬葉は微笑む。

 藍沢と海音の気持ちはきっと同じ。そう思うのは二人が互いのことを話していたときに同じように苦しそうな表情をしていたからだ。そしてきっと二人がこの場で何を話そうとしているのかも同じ。

 海音は言っていた。ちゃんと振られないと藍沢が先に進むことはできない、と。そして藍沢もさっき言っていた。ようやく自分の気持ちを吹っ切ることができる、と。

 二人の気持ちは同じ。それなのになぜだろう。こんなにも悲しい気持ちになってしまうのは。切ない気持ちになってしまうのは。

 果たしてこれが正解なのかどうか、冬葉にはわからない。


 ――それでも、きっと。


 二人が前に進める結果になってほしい。そう思う。


「ここのコーヒー、なんか前と味が違う気がする。豆変えたのかな。美味しいね」

「そうですね」


 頷きながらコーヒーを口に運ぶ。しかしそれは冬葉にはひどく苦く感じられた。

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