第37話

 待っている間に気持ちも落ち着いてきたのか、藍沢は店に来たときよりもリラックスした様子で海音のことを待っていた。

 いつものように雑談して笑い、しかし時々ふと思い出したように不安そうな表情を浮かべて窓の向こうへ視線を向ける。そして待ち合わせの時間が迫ってきた頃には自然と口数は少なくなり、彼女は無言でスマホを触り始めていた。


「ナツミさん」


 冬葉が声をかけると彼女は「ん、なに?」と固い笑みを浮かべる。


「大丈夫です」


 そう言った冬葉の言葉に彼女は少し驚いたような表情を浮かべたが、すぐに柔らかく微笑んだ。


「うん……。そうだね」


 頷いた彼女はその視線を窓の外に向ける。そして「あ……」と声を漏らした。見ると、ちょうど海音が店に入ってくる姿があった。そして塚本と一言二言会話をしてからカフェに入り、テーブルへとやってくる。


「……もしかしてわたし、時間を間違えてました?」


 テーブルの横に立った海音は冬葉と藍沢を見て首を傾げた。冬葉は「いえ」と笑みを浮かべる。


「ちょっとわたしたちが早く着きすぎてしまって」

「あ、そうなんですか。よかった」


 彼女は安堵したように笑って冬葉の隣に座る。


「二人一緒にここへ?」

「いえ。わたしが来たときにはもう店の前にナツミさんがいて」

「へえ」


 海音は頷くと藍沢に視線を向ける。


「相変わらずなんだ?」

「……なにが」


 低く藍沢は答えたが、その視線は手元のコーヒーカップに向けられていた。そんな彼女に海音は薄く微笑む。


「待ち合わせ時間よりも早く来る癖」

「別に癖なんかじゃ」

「冬葉さんとの待ち合わせでもそうなんでしょ? あんまり早く来すぎると気を遣っちゃうから気をつけなよ」

「……あんたはまったく気にしてなかったじゃん」

「そうでもないけどね」


 そう答えた海音に藍沢はチラリと視線を向ける。それに気づいたのか、海音は浅く息を吐くようにして笑った。


「ようやく目が合った。久しぶり、ナツミ」

「……ん」


 藍沢は小さく頷くと再び視線をコーヒーカップに向けてしまった。海音は少し悲しそうな表情を浮かべたが、すぐに「すみません、冬葉さん」と言った。


「え?」

「待たせてしまって」

「ああ、いえ。まだ待ち合わせの時間にもなってませんし」

「まさか冬葉さんまでこんなに早く来てるとは思わなくて」

「なんか、こちらこそすみません」


 冬葉が苦笑して謝ると海音は「ナツミの影響ですかね」と笑った。そして腕時計を見る。


「もう何か食べちゃいました?」

「いえ。コーヒーだけ」

「そうですか。じゃあ、頼みます?」

「はい、そうですね。ナツミさんはどれにします?」


 冬葉の言葉に藍沢は「わたしは――」と言いかけてから口を閉ざす。


「日替わり?」


 海音が聞くと藍沢は「まあ、うん」と頷いた。そういえば以前もここに来たとき藍沢は日替わりランチを頼んでいたことを思い出す。きっと二人で来た時から変わらず頼んでいるのだろう。


「冬葉さんはどれにします? ここ、どれも美味しいですよ」

「じゃあ、パスタにします。えっと、これで」


 冬葉がメニューを指差すと海音は頷いて店員を呼んだ。手際よく注文していく海音に藍沢は視線だけを向けている。その表情はいつもの藍沢とはまるで違う。不安そうな、心細そうな、そんな表情だった。


「懐かしいね、ここ」


 注文を終えて海音が藍沢を見ながら言う。


「変わってなくて安心した。佐英ちゃんも元気そうだね。ナツミも。あ、そういえばさっき佐英ちゃんから聞いたんだけどナツミ、まだ閉店間際の割引狙って来てるんだってね。そういうところも変わってないの、なんか安心したっていうか」

「……そんなこと言うために呼んだの? 冬葉まで巻き込んで」


 藍沢の言葉に海音は口を閉ざすと視線を俯かせた。


「ううん。違う」

「じゃあ、今さら何を言いたくて呼んだの?」


 海音は藍沢に視線を向けて口を開いたが、戸惑ったように眉を寄せて「えっと……」と再び俯いてしまった。


「ちゃんと話したくて。二年前のこと」


 海音の言葉は小さく弱々しかった。しかしその後の言葉が続かなかったのか彼女は口を閉ざし、じっとテーブルを見つめていた。藍沢はしばらくそんな彼女を見つめていたが、やがて「元気になったんだね」と口を開いた。


「え……?」

「あの子。また歌えるようになったんでしょ?」


 海音は目を丸くして顔を上げる。


「なんで――」

「動画上がってるの見た。さっき冬葉ともその話してたんだけど」


 言いながら藍沢は視線を冬葉に向ける。海音が驚いたように冬葉を見たので、冬葉は微笑んで頷いた。


「チャンネル登録してくれてたみたいですよ」

「そう……。外してなかったんだ?」

「忘れてただけ」


 藍沢は不服そうにそう言ったが、すぐにその表情を和らげた。


「良かったじゃん」

「――うん」


 海音は微笑みながら頷いた。藍沢はそんな彼女を見ながら「ごめんね」と続ける。


「え、なにが?」

「わたしね、知ってたんだよ。海音にとってあの子が大事な人だってこと。出会った頃はあの子のこと知らなかったから、そんなこと思いもしなかったんだけどさ。だからわたしの気持ちばかり押しつけちゃって。あの子のこと聞いたあとも、もう後には引けなくて。いま海音と付き合ってるのはわたしだからって――」

「ナツミ? 何言ってるの?」


 戸惑ったように眉を寄せる海音に藍沢は申し訳なさそうな笑みを向けた。


「海音って実は押しに弱いじゃん? だから断れなかっただけなんだよね。優しいから断れなくて付き合ってくれてただけで、海音の気持ちはわたしと同じじゃなかった。わたし、けっこう鈍感だったみたいだからさ。自分のことで精一杯で海音の気持ちに気づけなかった。だから、ごめんね」

「違う……。違うよ、ナツミ。わたしは――」

「いいよ、もう自分の気持ちを我慢しなくても。わたしのことなんて忘れていいから。わたしは大丈夫だから」

「……それは、ナツミにはもう冬葉さんがいるから?」


 その言葉に藍沢の視線が冬葉に向けられた。冬葉はどうしたらいいのかわからず、ただ彼女を見返す。すると藍沢は小さく首を横に振って微笑んだ。


「冬葉のことは好きだけど、今の冬葉の気持ちはきっと違う」


 海音がチラリと冬葉を見たのがわかった。冬葉はそれでも藍沢を見つめ続ける。藍沢は穏やかに「冬葉も海音と同じ、優しいからさ」と続けた。


「冬葉には冬葉の気持ちを大事にしてほしい。だから冬葉のことは関係なく、海音にも海音の気持ちを大事にしてほしい。あの頃のわたしがそう思えてたら良かったんだけどね」


 藍沢はそう言うと視線を海音に戻した。海音は小さく息を吐いて「たしかに付き合ってる頃もわたしは自分の気持ちをちゃんと言ったことなかった気がする」と小さな声で言った。


「ケンカはよくしてたけど」

「あー。一緒に暮らすとき、家具とかの趣味合わなくて大変だったよね」


 海音は懐かしそうに笑ったが「でも」と視線を俯かせる。


「わたしは自分の気持ちにウソをついたことも我慢してたこともないよ。あの頃のわたしの気持ちにウソはなかった」

「――ウソはなかったのにあんなことしたんだ?」

「そう」

「へえ」


 藍沢は力なく笑いながら項垂れる。


「……じゃあ、やっぱりわかんないや。あんたの気持ち」


 海音は藍沢を見つめながら「そうだよね……」と呟くように言った。


「ナツミにそんな顔をさせるようなことをしたのは、わたしが何も言わなかったせい。わたしがちゃんと自分の気持ちを言わなかったから……」

「言ってたじゃん。別れるとき」

「違う。あれは、違うよ」

「何が違うの?」

「あれは……。たぶん、わたしが間違ったんだよ」

「何を?」

「気持ちの伝え方……」


 海音はそう言うと「だから」と藍沢に強い視線を向けた。


「今日はちゃんと伝えたいって、そう思って――。だから冬葉さんに頼んであんたを呼んだの。ナツミ、絶対わたしからの連絡無視すると思ったから」

「……まあ、冬葉を巻き込んだのはわたしのせいでもあるか」


 藍沢は冬葉を見て申し訳なさそうに微笑んだ。そして浅く息を吐いてから彼女もまた海音に視線を向ける。


「いいよ。わたしもちゃんと聞くから話してよ。海音の気持ち。全部」


 藍沢は何か覚悟を決めたような表情で強くそう言った。

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