第35話
冬葉は蓮華の曲を聴きながら歩いていた。待ち合わせのカフェがある街の一つ前の駅で降りてゆっくりと歩く。このままのペースで向かっても時間には間に合うだろう。
日曜の朝なのであまり人はいないだろう。そう思っていたのだが、予想よりも人通りは多い。思えばこの辺りを一人で歩くのは初めてだ。以前は藍沢と一緒に歩いた。
冬葉にとってはよく知らない街。
だけどきっとここは藍沢と海音が共に過ごした街。
――二人、ちゃんと話せるといいな。
そう思わずにはいられない。そのために自分に何かできるとは思えない。少し話しただけで二人がすぐに打ち解けるとも思わない。それでも藍沢には苦しい気持ちを持ち続けてほしくはない。もちろん、海音にも。
ゆっくり歩きながらイヤホンから流れてくる蓮華の歌声に心を委ねる。とても心地良い彼女の歌声に包まれていると不思議と勇気が湧いてくる気がする。自分にも何かできるのではないか。そんな気持ちにすらなってくる。他には何も考えず、ただ蓮華の歌声に導かれるように向かったカフェ。
待ち合わせ時間にはまだ少し早い。かといってどこかで時間を潰すほど土地勘もない。下手に歩き回ったら迷子になってしまうだろう。仕方なくそのまま店の前で待とうと思ったのだが、辿り着いたそこにはすでに藍沢の姿があった。
彼女も冬葉を見て驚いたような表情を浮かべたが、すぐに「おはよ、冬葉」と力なく微笑んだ。
「おはようございます。ナツミさん」
「ずいぶん早いね」
「ナツミさんこそ」
「……まあね」
彼女はそう言うと店の方へ視線を向ける。
「一人ならこのまま待とうと思ってたんだけど、入っちゃおうか。まだそこまで混んでないみたいだし」
「え、でも予約の時間が」
「たくさん頼めば大丈夫だよ、きっと。ちょっと聞いてみるね」
藍沢は言いながら店に入っていった。店内には彼女の後輩の姿がある。たしか名前は塚本だっただろうか。藍沢が一言二言話すと彼女は笑顔で頷いた。
「冬葉、大丈夫だってさ。入っちゃお」
ドアから顔を出した藍沢はそう言うと、一人で先にカフェスペースへと向かっていく。
「あ、待ってください」
冬葉も店内に入る。すると塚本はどこか複雑そうな表情で「いらっしゃいませ」と笑みを浮かべた。そして冬葉に近づくと「今日、三朝さんも一緒なんですね」と小声で言った。冬葉は頷く。
「ご存知なんですね」
「まあ、あの二人よく来てましたから。それよりも桜庭さんがあの人とも知り合いだったってことにビックリしました」
「……偶然だったんですけどね」
「そうなんですね」
塚本は頷くと「大丈夫かな、先輩」と先に席に着いた藍沢に視線を向けた。
「もうあんな顔してる先輩、見たくなかったな」
――あんな顔、か。
たしかに今日の藍沢は元気がない。いつもより表情に覇気がなく、どこか上の空のようにも見える。現に今も座ったままメニューを見ることもなく、ただぼんやりとどこかを見つめていた。
「……あなたと会えて昔の先輩に戻ったと思ったんですけどね」
塚本はどこか悲しそうに微笑んだ。
「このままあなたと付き合ったら先輩も幸せになれる。そう思ったのに。先輩、あなたと話してるときめちゃくちゃ楽しそうで嬉しそうだったから」
「――すみません」
「いえ。わたしが一方的にそう思っただけですから。あなたにはあなたの気持ちもありますしね。だけどわたし、先輩が悲しむ姿はもう見たくないんです」
塚本はため息を吐いた。冬葉はちらりと彼女に視線を向ける。
塚本が藍沢を見る目は先輩後輩の関係だけとは思えない。友達関係とも違う気がする。その表情は、もしかすると――。
「……塚本さんはナツミさんのこと好きなんですか?」
彼女の表情を見ていて、つい冬葉はそんなことを口にしていた。塚本は驚いたように目を見開いたが、すぐに照れたように笑った。
「初恋……。いえ、憧れかな。そんな感じです」
「憧れ、ですか」
「はい。わたし実は高校の頃に告って振られたんですよね。紗英の気持ちはきっと勘違いだって」
彼女は懐かしそうに微笑みながら言った。
「あの頃のわたしって、ほんとダメダメで……。何かあったら先輩に相談して助けてもらってたんです。あの頃のわたしは先輩に依存してた。それを先輩もわかってたんですよね。紗英が一人前になったら考えてもいいって……」
塚本はそこで言葉を切ると小さく息を吐いた。
「わたしはそれ、わりと本気にしてたんですけどね。どうやらわたしはいつまでも後輩としか思われないみたいで……。先輩、普通にこの店に彼女連れてくるようになるし、もしかしたらわたしが告白したことなんて忘れてるのかもしれない。でも失恋で傷ついてる先輩を見て、今度こそわたしを見てくれるんじゃないかってちょっとだけ期待したりもしたんです。結局ダメでしたけど」
彼女は苦笑して冬葉を見てきた。冬葉は曖昧に笑うことしかできない。
「桜庭さんでしたっけ。先輩の気持ち、わかってますよね?」
そう言った塚本の表情にもう笑みはない。冬葉は頷き「でも」と口を開く。
「わたしが聞いたナツミさんの気持ちが、今のナツミさんの本当の気持ちかどうかわかりません」
塚本はじっと冬葉を見つめていたが、やがて柔らかく微笑んだ。
「前に会ったときと少し印象変わりました。桜庭さん」
「そうですか?」
「はい。失礼ですけど鈍感な人っぽいなぁって思ってたから」
「それは否定しません」
冬葉が笑うと塚本も笑った。そして視線を再び藍沢の方に向ける。
「先輩のこと、お願いしますね。桜庭さん。わたし、あんな先輩は見たくないんです。先輩には幸せになってもらいたい。誰と結ばれたとしても先輩が幸せならわたしはそれだけで嬉しいんです。だけどわたしには何もできないから」
「……わたしもナツミさんを悲しませるかもしれませんよ」
「そうなったら――」
塚本はそこで言葉を止めた。見ると彼女は眉間に皺を寄せて真剣な表情で何やら考え込んでいる。そう思った次の瞬間、彼女は「あー、無理だ!」と頭を抱えてしまった。
「え、塚本さん?」
驚いて声を掛けると彼女は悔しそうな表情で「どうやってもわたしが先輩を慰めるイメージが浮かびません」と笑った。
「だから、もしあなたが先輩を悲しませたときは責任持ってあなたが先輩を慰めてくださいね」
「……そうならないように善処します。わたしもナツミさんの悲しい顔は見たくないですから」
冬葉の言葉に塚本は微笑み、そっと背中を押した。
「行ってあげてください。先輩、ようやく桜庭さんが来てないことに気づいたみたいですから」
見ると彼女の言う通り、藍沢がキョロキョロと店内を見回していた。そして冬葉を見つけると「冬葉! なにやってんの。早く来てよ」と手を振った。
「すみません。今行きます」
冬葉は手を振り返すと塚本に「よかったら、今度聞かせてもらえませんか」と言った。塚本は不思議そうに首を傾げる。
「高校時代のナツミさんの話」
すると彼女は「いいですよ」と嬉しそうに頷いた。
「先輩がどれだけかっこいい先輩だったのか存分に話してあげます」
「楽しみにしてます」
冬葉は彼女に笑みを向けてから藍沢が待つテーブル席へと移動した。
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