第九章
第34話
翌朝、紗綾は早朝の電車で帰っていった。
あれから蓮華とはすぐに連絡がついた。彼女はいつでも暇だから大丈夫と言ってくれたのだが、紗綾にはどうやら心の準備が必要らしい。来週の土曜日にまた来ると一方的に言って帰っていった。
「そっか。紗綾ちゃん帰っちゃったんだ。挨拶だけでもしようかなと思ったんだけど」
紗綾が帰ったあとにかかってきた蓮華からの電話。彼女は残念そうにそう言った。
「そこまで嫌われてるんだね、わたし。わかってはいたけど……」
「ううん。そんなことないですよ」
沈んだ口調の蓮華に冬葉は力を込めて言う。
「紗綾、帰る前に言ってました。ちゃんと勉強してから会うって」
「勉強?」
「はい。ちゃんと会うなら、ちゃんと勉強してから会いたいって」
「勉強……。何を?」
「たぶん蓮華さんの曲だと思います。なんとなくしか聞いたことないからちゃんと聞き込んでから会うって」
「え……?」
「あの子なりに、色々と整理が必要なんだと思います」
冬葉は微笑む。
きっと紗綾は蓮華のことが嫌いというわけではないのだ。その証拠に蓮華の曲のことだって知っていた。少なくとも歌手として活動していた頃の蓮華に興味を持っていたはず。
しかし、このまま会うのは失礼だと思ったのかもしれない。ネットの情報に踊らされず、まずは彼女なりに蓮華が作った曲から蓮華のことを知ろうとしているのかもしれない。そして自分の気持ちを整理してから会おうとしているのだろう。
「わたしも昨日、紗綾に教えてもらってスマホに入れたんですよ。蓮華さんが出してる曲全部」
「え、全部? ウソ」
「なんでウソつくんですか。全部入れました。全部すごく素敵な曲で、全部好きです」
「……中にはすごい適当に作ったやつもあるよ?」
「そうなんですか? わたし音楽のことはよくわからないけど、だけどいろんな蓮華さんに会えた気がしてすごく嬉しいです。いつでも蓮華さんといられる気がして、ほんとすごく嬉しい」
するとなぜか蓮華は黙ってしまった。
「あれ、蓮華さん?」
しかし返事はない。何か気に障ることを言ってしまっただろうか。不安になっていると「――冬葉さんはさぁ」と息を吐くような蓮華の声が聞こえた。
「蓮華さん? どうしました?」
「ほんとそういうところだよ」
「そういう……? えっと、もしかして怒ってます?」
「怒ってないよ。むしろ嬉しいけど――」
蓮華はそう言うと再び深くため息を吐いた。冬葉はよくわからずに困惑してしまう。
「まあ、いいや。ありがとう。冬葉さん」
「え、なにがですか?」
「さあ、なんでしょう」
彼女はそう言って笑うと「それより」と話題を変えた。
「今日は何するの? 冬葉さん」
「今日ですか……」
冬葉は少し考えてから「ちょっと出掛けてきます」と答える。
「買い物?」
「ああ、いえ。友達と約束が」
「そっか。残念」
「残念?」
「もし冬葉さんの予定がなければ会いたいなぁと思ったから」
思わぬ言葉に冬葉は一瞬ドキッとしてしまう。そして一昨日言ったことを思い出して「すみません」と謝った。
「会いたいときにはいつでもって言ったのに」
「謝らないで。予定があるなら仕方ないよ。こうして声が聞けただけでわたしは嬉しいから。それに、いつでもわたしは冬葉さんの近くにいるんでしょ?」
そう言った彼女の声はとても柔らかくて優しい。冬葉は微笑む。
「はい。いつでもスマホから蓮華さんの歌声に会えます」
「そっか。良かった。昔のわたしも無駄じゃなかったんだね」
「無駄なんて、そんなことありません。蓮華さんが頑張って曲を作り続けてくれたからあの曲ができたんですよね。蓮華さんの曲、ほんとにどれも素敵で好きですけど、やっぱりわたしはあの曲が一番大好きです。今まで聞いてきたどんな曲よりも一番好き」
心からの気持ちを伝えたつもりだったのだが、蓮華は再び沈黙してしまった。
「……蓮華さん?」
「――冬葉さん」
少し上擦ったような蓮華の声に冬葉は「はい?」と首を傾げる。
「そういうの、ほんと冬葉さんだなって思うんだけど」
「えっと、ごめんなさい?」
「いや、違くて――」
蓮華が深く息を吐いたのがわかった。そして「ほんと心臓に悪い」とポツリと呟いた。
「え?」
「なんでもない!」
蓮華は何かを誤魔化すように強い口調でそう言うと「じゃあ、またね。冬葉さん」と続けた。
「……はい。また」
通話が切れ、冬葉は通話終了の表示を見つめながら「ごめんなさい、蓮華さん」と謝る。
なんとなく言い出すことができなかった。今日、これから海音と藍沢に会うということを。
昨日、海音にメッセージを送ると今日会えるのなら今日がいいと返信があったのだ。それには藍沢も同意見だったらしく、すぐに待ち合わせの場所も時間も決まった。
きっと先延ばしにすればするほど会いづらくなる。それが二人にはわかっていたのだろう。そして場所はあのカフェだ。おそらく海音と藍沢が付き合っていた頃よく通っていたのだろう、藍沢の後輩が働いているカフェ。
二人が再会して話をして、それからどうなるだろう。
藍沢の蓮華への気持ちは変わってくれるだろうか。
海音と藍沢、そして蓮華とのわだかまりは消えるだろうか。
その場に自分がいて本当にいいのだろうか。
考えても、もちろん答えなどでるわけもない。冬葉は時間を確認する。待ち合わせにはまだかなり時間がある。それでもじっとしていられない。
「……ちょっと散歩してから行こうかな」
少しでも気持ちを落ち着けるために歩くのもいいだろう。冬葉は出掛ける支度を始めた。
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