第33話

「わたしは蓮華さんに話を聞いた。子供の頃のこと、家族のこと、お仕事のこと、そのファンの子のこと、海音さんのこと。蓮華さんが生きてきた人生をちゃんと聞いたんだよ。あの話にウソはない。わたしはそう思う」

「……お姉ちゃんは騙されやすいから」

「そうだね。だけど、ネットで流れてる情報が本当だという確証はないでしょ」

「それは――」


 紗綾は俯き「そうだけど……」と消え入りそうな声で呟いた。冬葉は微笑み「紗綾」と声をかける。


「わたしのこと心配してくれたんだよね? わたしが頼りないから」


 紗綾は俯いたままチラリと冬葉を見た。


「お姉ちゃんは頼りなくはないよ」

「そう?」

「そうだよ。ただ、ちょっと鈍くさくて抜けてて騙されやすいだけ」

「……それを頼りないっていうんだよ。きっと」


 冬葉は笑ったが紗綾は笑わなかった。マグカップを両手で持ったまま「お姉ちゃんは優しいから」と続ける。


「だから、自分のこともいっぱい我慢してたでしょ。何をするのもわたしの為にって。自分のことよりもわたしの為にって、そうやって楽しいことも我慢して今まで生きてきたでしょ」


 冬葉は目を丸くして「紗綾? 何言ってるの?」と彼女の顔を見る。紗綾はココアを一口飲むと一つ息を吐く。


「――お父さんとお母さんが死んで、おじさんたちの家に引き取られたとき、わたしは子供でお姉ちゃんも子供だった。なのにお姉ちゃんはわたしの前で一度も泣かなかったよね。わたしがいるから、我慢してた」

「そんなこと――」

「わかってたよ。わたし」


 紗綾は冬葉の言葉を遮ると顔を上げて「ずっと知ってた。お姉ちゃんが我慢してること」と微笑んだ。


「でも、わたしはそれが嫌だったんだよ」


 その言葉に冬葉は目を見開く。紗綾は微笑んだまま「お姉ちゃんばっかり我慢してるのは嫌だった」と続ける。


「もっとわたしを頼りにしてほしかったのに、でもわたしは子供だったから頼りないのも当然で……。どうしたらいいのかわからなくて。ようやく高校生になってちょっとはお姉ちゃんを助けることができるかもしれないって、そう思ったらお姉ちゃん一人で決めて勝手にどっか行っちゃうしさ。でも、わたしと離れた方がお姉ちゃんはもしかしたら幸せになれるんじゃないかって一瞬はそう思ったんだよ」

「紗綾、なんでそんなこと」

「荷物は持たない方が楽でしょ? それに少し距離があった方がお姉ちゃんはわたしをもっと大人として見てくれる。そう思ったのにさ」


 彼女はそう言うと悲しそうに視線を俯かせた。


「お姉ちゃんはわたしを頼りになんてしてくれない」

「……そんなこと」

「お姉ちゃんはわたしの言うことを信じてくれない。わたしは、ただお姉ちゃんに幸せになってほしいだけなのに」

「紗綾……」


 紗綾がこんなことを言うのは初めてだった。いつも自分の気持ちを言うような子ではなかった。内気というわけではない。しかし自分に素直になれないような、そんな子。


「わたしは紗綾のことを重荷に思ったことなんてないよ? わたしも同じ。ただ紗綾に幸せになってもらいたいだけ」

「だったらまずはお姉ちゃんが幸せになってほしい。もうあの人とは会わないでよ」

「……なんでそうなるの? 紗綾」

「だって――」


 紗綾の声が震えている。視線を向けると彼女の瞳には涙が溢れていた。


「嫌だよ。お姉ちゃんが傷ついてひどい目に遭うの。蒼井蓮華はひどい奴だって、ネットではそんな話しか出てこない。そんな評判の悪い人の近くにお姉ちゃんにいて欲しくない」


 紗綾は泣きながらそう言って顔を覆った。冬葉はそんな彼女を見つめ、そっと手を伸ばして彼女を引き寄せる。


「蓮華さんはそんな人じゃないよ」

「でも、みんなそう言ってる」

「その人たちは蓮華さんのこと知らないからね。今度、ちゃんと本人に会って話してみてよ。紗綾もわかるよ。蓮華さんがどんなに優しい人なのか」

「……もし、ちゃんと話してみても嫌な奴だってわたしが思ったら離れてくれる?」

「うーん……」


 冬葉は紗綾の頭を撫でてやりながら苦笑する。


「それは困っちゃうな」


 胸元で紗綾が息を吐いて笑ったのがわかった。彼女は冬葉に体重を預けながら「わたし、ナツミさんは好きだよ」と言った。


「あ、そういえばわたしに内緒で連絡とってるでしょ? 藍沢さんと」


 冬葉が言うと紗綾は笑った。


「ナツミさん、すごく良い人なんだもん。お姉ちゃんのことすごく気に掛けてくれてる」

「うん。良い先輩だよ」

「……それだけ?」


 紗綾はそう言うとそっと冬葉から身体を離した。その瞳はまだ涙に濡れていたが、視線はまっすぐに冬葉へ向いている。冬葉は首を傾げた。


「それだけって……?」

「ナツミさんのこと、良い先輩だって思ってるだけなの?」


 冬葉は少しの間、紗綾を見つめてから「何か聞いた? 藍沢さんから」と聞いた。紗綾は首を横に振る。


「でもナツミさんと話してるとさ、なんとなく思っちゃって」


 紗綾は言いながら微笑んだ。


「友達から恋愛相談持ちかけられてるときの雰囲気によく似てたから」

「……そうなんだ」


 冬葉の言葉に紗綾は「納得するってことは、やっぱりそうなんだ?」と首を傾げた。冬葉は微笑み、そして「でもね、まだわからないんだ」と答えた。


「どういうこと?」

「藍沢さんの気持ちはきっと本当で、でも、きっとそれだけじゃなくてさ」

「……あの人からも告白された?」


 冬葉は笑いながら「そういうことじゃなくて」と手元に視線を向ける。


「色々と複雑なんだよ……」

「話してくれないんだ?」

「……まだわからないから」

「色々と?」

「そう」


 冬葉は笑うと「まずは紗綾に蓮華さんのことをちゃんと知ってもらいたいな」と紗綾に寄りかかる。


「わたしは知りたくない」

「そんなこと言わないでよ。藍沢さんのことを知ってくれたように、蓮華さんのことも知ってほしい」

「……お姉ちゃんはさ、女の人が好きなの?」


 紗綾の言葉に冬葉は「さあ。どうなんだろう」と息を吐くようにして答える。


「わからないの?」

「うん。今までそういう経験もなかったし」

「お姉ちゃん、モテるのにね」

「モテないよ」

「モテてるじゃん」


 紗綾はそう言うと彼女もまた冬葉に寄りかかってきた。


「わたしもお姉ちゃんのこと大好きだよ」

「そっか」


 冬葉は微笑む。初めてだった。紗綾が素直に気持ちを伝えてくれたことが。それが嬉しくて温かくて、冬葉は目を閉じて彼女の温もりを感じる。


「――わたしね、お姉ちゃん」

「うん」

「誰よりもお姉ちゃんに幸せになってもらいたいんだ」

「誰よりも?」

「うん。それが、わたしの夢」


 冬葉は紗綾に視線を向けた。彼女は穏やかな表情で微笑んでいる。


「だからわたしはお姉ちゃんの迷惑にならないように早く一人立ちしようと思ってる」


 ――ああ、だから。


 ようやくわかった。ずっと話してくれなかった紗綾の夢。紗綾にはやりたいことがある。それを叶えてもらいたいから紗綾には大学に行ってもらいたかった。しかしどうやら間違えていたようだ。


「早く言ってくれたら良かったのに」

「……言えるわけないじゃん」

「言わないとわからないよ。お姉ちゃんは鈍感なんだから」


 紗綾は笑って「だからさ、お姉ちゃん」と身体を起こして冬葉に笑みを向けた。


「わたしのことは大丈夫だから、ちゃんと自分のことを考えてね」


 妹の夢を叶えたい。それが冬葉の夢だった。その夢を叶えるためには今のままではダメなようだ。冬葉は微笑む。


「じゃ、やっぱりまずは蓮華さんと会ってもらおうかな」


 途端に紗綾は嫌そうに顔をしかめる。だが、それだけだ。嫌だとは言わない。きっと彼女にも変化があったのだろう。


「本当はさ、今日ここに来たのはお姉ちゃんにあの人と会うのをやめてもらおうと説得しに来たんだけど」

「そうなの?」

「うん。でも、その説得はちゃんとわたしがあの人と話した後にしとく」

「説得の時間は永遠に来ないと思うなぁ」

「それはわからないよ。わたしの審査は厳しいからね?」

「何の審査なの」


 冬葉は声を出して笑った。つられるように紗綾も笑う。

 久しぶりだった。こんなにも楽しく紗綾と一緒に笑える時間が。


「――じゃあ、連絡してみるね。蓮華さんに」


 言いながらスマホを開く。


「あ、今日は泊まっていく? 着替えとかならお姉ちゃんの貸してあげられると思うけど」

「そうしようかな。おばさんに連絡しとく」

「うん」


 頷きながら冬葉は蓮華にメッセージを送る。昨日の今日だ。なんだか緊張してしまう。いきなり妹と会ってくれというのは変だろう。何と送ればいいだろうか。

 考えているとポンッとメッセージが届いた。それは藍沢からだった。


『冬葉が一緒にいてくれるなら、海音と話してもいいよ』


 冬葉は少し考えてから返信する。


『わかりました。海音さんに聞いてみますね』


 既読になったが返信はない。藍沢らしくない素っ気ないメッセージだ。


 ――いいのかな。


 二人の会話を自分が聞いてしまってもいいのだろうか。聞いてしまったとき、自分の気持ちに何か変化は起きるだろうか。

 思いながら冬葉は海音にメッセージを送った。

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