第32話

 それから海音とは当たり障りのない会話をして別れた。

 互いにどこまで踏み込んでいいのかわからない。そんなぎこちない会話ではあったが、海音がどれだけ蓮華のことを想っているのかということはその話し方や表情からわかった。そして彼女がどれだけ優しい人なのかということも。


 ――みんな優しいのに。


 ガサガサと両手に買い物袋を提げてアパートへ向かいながら冬葉は思う。

 蓮華も海音も、そして藍沢もみんな優しい人なのだ。

 誰が悪いということはない。ただすれ違ってしまっているだけ。そのすれ違いが元通りになったとき、三人の関係はどうなるのだろう。そこに自分の居場所はあるのだろうか。

 考えて少しだけ不安になる。少し話を聞いただけでもわかる。彼女たちの関係は誰が見ても特別なものだ。そこに他人が入り込む余地はない。


 ――別に、元通りになるだけか。


 そうだ。何を不安になっているのだろう。そこに自分の居場所がなくなっても、それは元通りになるだけなのだ。それは冬葉にとっては少し寂しい。しかしきっと蓮華たちにとっては良いことだ。

 そんなことを思いながらアパートの階段を上がっていくと部屋のドアの前に誰かが立っていた。冬葉が近づく音に気づいたのか、その人物がこちらを振り返る。そして「あ、帰ってきた」と低い声で呟いた。


「紗綾? あれ、なんでここに?」

「来ちゃダメなの?」


 紗綾はそう言うと眉を寄せる。どうやら不機嫌のようだ。冬葉は「そんなことないけど」と玄関の鍵を開けて中に入った。


「いつからここに?」

「二時間くらい前」


 その答えに冬葉は目を見開く。


「なんで連絡してくれなかったの」


 しかし彼女は無言でテーブルの前に座り込むと小さなバッグを床に置き、クッションを抱きかかえた。特に泊まり用の荷物も持って来ていないようだ。


「どうしたの、紗綾」

「なにが? 会いに来ちゃ行けなかった?」

「そんなことないよ。でも、なんか変だから」


 冬葉は荷物を適当に置いてケトルに水を入れると湯を沸かし始めた。


「……どこ行ってたの。買い出しに二時間以上かかるとは思えないんだけど」


 紗綾が買い物袋に視線を向けながら言う。


「カフェ行ってたから」

「誰と?」

「なんで誰かと行ったって思うの。わたし一人かもしれないでしょ?」


 コポコポと湯が沸き始めた音を聞きながら冬葉は苦笑する。しかし紗綾は表情を変えることなく「お姉ちゃんが一人でカフェなんて行くわけない」と言った。


「そんな決めつけなくても。お姉ちゃんだってたまには一人で行くかもよ?」

「誰と行ったの? 蒼井蓮華?」

「違うよ」


 冬葉は視線をケトルに向けながら答える。


「じゃあ、誰?」

「海音さん」

「海音……。誰?」

「蓮華さんのお姉さんみたいな人、かな」


 別に隠すこともないだろうと冬葉は正直に話す。今ここではぐらかすようなことを言えば、それこそ紗綾の機嫌を損ねるだけだろう。


「紗綾も会ったことあるよ。スーパーで」

「……ああ。あの人と一緒にいた」


 紗綾は眉を寄せると「いつの間に仲良くなったの?」と言った。


「その海音って人の話なんて聞いたことないんだけど」


 パチンとケトルのスイッチが切れた。注ぎ口からは白い湯気がフワフワと上がっている。


「仲良くっていうか、買い物行ったら偶然会ったから」


 言いながら冬葉はマグカップにココアを淹れるとテーブルに運んだ。


「はい。寒かったでしょ」

「……お姉ちゃん、もうあの人と関わるのはやめなよ。その海音って人ともさ」


 目の前に置かれたマグカップを両手で包み込みながら紗綾は呟くように言う。冬葉は彼女の隣に腰を下ろしてココアを一口飲んだ。


「――どうして?」

「……どうしてって、わかるでしょ?」

「わかんない」


 冬葉が答えると紗綾は横目で見てきた。そしてため息を吐く。


「あの動画、見たんだよね?」

「蓮華さんの?」

「そう」

「見たよ」

「コメント欄も見た?」

「うん。見た」

「だったら――」

「でも、あれはわたしが知ってる蓮華さんのことじゃないから」


 紗綾の言葉を遮って冬葉は言った。


「何言ってんの?」


 紗綾が眉を寄せて冬葉に顔を向ける。


「お姉ちゃん、あの人の過去知らないの? 調べたりしなかった?」

「知ってるよ」


 冬葉は微笑んだ。


「蓮華さんから全部聞いた」

「あの人から? どうせ本当のこと言ってないんじゃないの」

「そんなことないよ。全部、ちゃんと話してくれた」

「全部? ほんとに?」

「うん」

「あの人がファンの子を殺したっていうのも?」


 それを聞いて冬葉は目を見開いた。


「聞いてないんだ? やっぱり」


 紗綾は眉を寄せると低く「お姉ちゃん、騙されてるよ」と続けた。


「……紗綾こそ、その話はどこで聞いたもの?」

「どこって、みんな言ってるよ。当時はネットでも騒がれてたし」


 冬葉は小さく息を吐くと「その子は亡くなってないよ」と静かな口調で言った。


「その子はたしかに自殺しようとした。でも一命は取り留めたの」

「ウソ」

「ウソじゃない」

「なんでわかるの」

「蓮華さん、その子に何度も謝りに行こうとしたんだって。でも、謝罪は受け入れてもらえなかったらしいんだけど」

「そんなのあの人が――」

「紗綾。紗綾の話は全部ネットで見聞きしたことでしょ?」


 冬葉が言葉を遮ると紗綾はグッと口を閉ざした。


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