第七章

第26話

 物心ついた頃から蓮華は周りを気にしない子供だったらしい。今にして思えば、周りを気にしていてはまともに生活できなかったからだろう。両親の仲は悪く、ケンカが絶えない毎日だった。

 八歳上の兄は優しかったが、歳が離れていたせいか兄妹という距離感ではなかったように思う。友人と遊ぶことを優先していたのか、それとも単純に家にいたくなかっただけなのか、記憶にある兄は毎日のように夜遅くに家へ帰ってくる生活だった。

 自然と一人で遊ぶことが多くなっていた蓮華の唯一の遊び相手は隣の家に住む三朝みささ海音かいね

 六つ年上の海音は元々は兄の幼なじみで、兄が中学生になる頃まではよく互いの家に行き来して遊んでいたらしい。しかし兄が中学に上がる頃には自然と距離ができ、いつの間にか彼女は兄ではなく蓮華と遊んでくれるようになっていた。

 蓮華にとっては誰が遊び相手だろうと変わらない。極端に言えば遊び相手がいなくても構わなかった。

 なぜならその頃からすでに蓮華は音楽が好きだったからだ。兄がジャンルを問わず音楽好きだったこともあるのだろう。兄が家にいるときはいつだって部屋に音楽が流れていた。まるで親がケンカする声を掻き消すかのように。

 蓮華は兄がいないときも勝手に兄のデッキを使って音楽を流していた。そして蓮華が小学生になる頃、何を思ったのか兄は自分のギターを蓮華にくれた。それは兄が中学の入学祝いにと祖父母から買ってもらった安物のギター。


「俺はもう使わないし、あっても邪魔だからお前にやる」


 そう言って投げるように渡されたギターは、それでも蓮華にとっては最高のおもちゃとなった。

 弦を鳴らせば音が出る。

 弦を押さえれば音が変わる。

 そんな当たり前のことが新鮮で面白く、無邪気に喜んでいた蓮華に教本をプレゼントしてくれたのは海音だった。練習すればするほど上達するのが嬉しくて、一人でひたすらギターを弾き続けた。

 そのうち暇があれば海音に聴いてもらうようになり、海音から曲をリクエストされればその曲を練習して彼女の前で披露するようになっていた。そんな日々が続いたある日、海音が言ったのだ。


「オリジナルとか作ってみれば?」

「……オリジナル?」

「そ。自分で曲を作るの」

「いや、そんなことできるわけ――」

「できると思うけどなぁ? 聞きたいなぁ。蓮華が作った曲」


 そんな海音の言葉は、まだ小学生だった蓮華を動かすには十分だった。

 海音は綺麗な人だった。性格はさっぱりとしていてどちらかというと男勝り。きっと学校でもモテていたはず。それなのに高校生になっても彼女は部活にも入らず、まっすぐに帰ってきては蓮華と遊んでくれた。そして曲を聴かせてくれとせがむのだ。そんな彼女の頼みを断れるはずもない。

 彼女と一緒に過ごす日々は楽しくて居心地がよくて、彼女が望むのならと蓮華は曲作りに没頭した。

 意外とやってみればなんとかなるもので、曲らしいものは自然と出来上がっていった。


「いいじゃん! すごくかっこいいよ。この曲!」

「かっこいい?」

「うんうん。かっこいい。次はオリジナルの歌も聴きたいなぁ」

「……海音、また無茶なことを」


 中学二年のある日、完成した何曲目かのオリジナル曲を聴かせたところ、そんな要求を彼女がしてきた。


「蓮華はさ、歌詞も作れると思うんだよね」

「なんで?」

「口から出任せ上手いじゃん?」

「……それ、歌詞作りの才能と関係ないと思うし、海音の前でそんなに出任せ言うような機会もなかったと思う」

「あと、わりとロマンチストだし」

「人の言葉を無視しないで」

「いけるって」


 海音の部屋。ギターを構えて海音のベッドの上に座る蓮華を彼女は床に置いたクッションの上に座って嬉しそうに見つめていた。

 蓮華はギターを軽く鳴らして「海音ってさぁ」とため息を吐く。


「うん?」

「友達いないの?」

「は? なんで」

「海音って一応は大学生でしょ?」

「なに、一応って。ちゃんと大学生だけど?」

「もう二十歳じゃん」

「そうなんだよねー。大人でしょ」

「じゃなくて」


 蓮華はもう一度深くため息を吐く。海音は不思議そうに「なによ」と首を傾げた。


「大学生にもなって家で中学生の相手してるってどうなの?」


 それを聞いた彼女は一瞬だけ考える素振りを見せたが、すぐにまた首を傾げた。


「え、なにかダメなの?」

「ダメじゃないけどダメだと思う」

「いやなにそれ。どっちよ」

「楽しい? 中学生と遊んで」


 蓮華が訊ねると彼女は考える間もなく「楽しいよ?」と当たり前のように答えた。そして「いや、遊んでるって感じじゃないけどな。蓮華相手だと」と続ける。


「どういう意味」

「無料ライブに参加してる気持ちでいる」


 真面目な顔でそんなことを言う海音が本気なのかどうかわからず、蓮華は「ライブしてるつもりは全くないんだけど」と答えた。


「わたしみたいな子供が作ったド素人の曲聞くよりもさ、最近流行ってるグループとか歌手とかのライブ行きなよ。彼氏でも作って」

「彼氏ねぇ……」


 海音は呟くと眉を寄せた。珍しく嫌そうな表情だ。


「いたことあるの?」

「まあ」


 その返事に蓮華は目を見開く。


「いつの間に……」

「わたしだって毎日蓮華と一緒ってわけじゃないでしょ?」

「それは確かに」


 しかし、今までそんな素振りを見せたこともなかったので驚きだ。


「わたしが知ってる人?」

「そりゃね。あんたの兄貴だし」

「え、そうなの?」

「そうなの。まー、そんな長くは続かなかったけど」


 海音は何でもないことのように言うと軽く笑った。


「どれくらい?」

「んー。高校の時に一年くらい?」

「そうなんだ……」


 なんとなくショックを受けてしまった自分の感情がわからず、蓮華はぼんやりと返事をする。


「なに。お兄ちゃんを取られてたと知ってショック?」

「いやそれは全く」


 むしろ海音が自分が知らないところで誰かと付き合っていたことがショックだった。しかし、そんなこと口に出すこともできない。


「……今は? 誰かと付き合ってるの?」


 おそるおそる訊ねると、彼女は曖昧に微笑んで頷いた。


「まあ、付き合ってる人はいるけどさ」

「うそ」

「ほんと」

「知らなかった」

「大人はミステリアスだからねー」


 海音はからかうようにそんなことを言って笑うと「それよりさ」と蓮華に笑みを向けた。


「歌詞、考えてみてよ」

「えー。なんでそんなに書かせたがるの……」

「聴いてみたいから。蓮華が作った曲を蓮華が作った歌詞で蓮華が歌ってるのを」

「そんなことより大学生活楽しみなよ」

「楽しんでるよ」

「彼氏とデートは」

「彼氏はいないからそれはしないかな」

「え……」


 蓮華は眉を寄せる。


「でも付き合ってる人はいるって」

「まあ、いいじゃん」


 海音はそう言って笑うと「できたらすぐに聴かせてよね」と立ち上がった。そしてジャケットを羽織り始める。


「バイト?」

「そ。遊ぶ金欲しさに働いてくる」

「正直すぎない?」


 海音は笑うと「ゆっくりしていきなよ」と鏡で軽く髪を整えながら言った。


「今日は誰もいないし。なんなら泊まっていってもいいから」

「……うん。ありがとう」


 蓮華の言葉に海音は微笑み、「じゃ、いってくるね」と部屋を出て行った。

 誰もいなくなった部屋は静かだ。

 さっきまで海音が座っていた場所を見つめながら蓮華は「付き合ってる人、いたんだ」と呟く。

 それはそうだろう。いつも遊んでくれているとはいえ、海音には海音の生活があり、彼女だけの人間関係だってある。こうして気軽に家に泊めさせてくれるのは蓮華が特別な存在だからというわけではなく、ただ可哀想に思ってくれているだけ。


 ――わたしの家の子になっちゃえばいいのに。


 いつだったか、そんなことを海音が言ったことを思い出す。あれは三年ほど前だっただろうか。ちょうどその頃が一番、両親の仲が冷え切っていた時期だった。

 顔を合わせれば喧嘩というのはそれまでもそうだったのだが、この時期にはよく物を投げ合ったりするようにもなっていた。うっかりその場を通りがかってしまった時には飛んできたものが当たってアザができたりもしていた。

 そんな冷え切った仲でも離婚しないのは、おそらく蓮華がまだ幼かったからだろう。世間体でも考えていたのか、蓮華が中学を卒業するまでは離婚しない。それが両親唯一の一致した考えだったらしい。

 思えば、あの頃よく蓮華の家に海音が遊びに来ていたのはもしかするとちょうど兄と付き合っていた時期だったのかもしれない。兄と海音が一緒にいる姿を見た記憶はないが。


「海音は面倒見がいいのか、過保護なのか」


 それでも彼女がいたからこうして好きなことを続けていられるのかもしれない。海音がずっと嬉しそうな笑顔で「蓮華の曲が聴きたい」と言ってくれるから。

 蓮華はその頃のことを思い出しながらギターを鳴らす。


「歌詞、ねぇ」


 この曲にはどんな歌詞が合うのだろう。海音のために書いた曲だから海音の為の歌詞にしよう。海音という存在に救われている。その気持ちを込めて。


「よし」


 蓮華はギターを持ったままベッドから降りて床に座ると、学校の鞄から適当に取り出したノートをテーブルに広げた。

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