第六章
第22話
ゆっくりとしたスピードで走る車から冬葉は暗い街並を眺めていた。車内の温度が低く感じるのはすっかり身体が冷えてしまったからだろうか。
強く冷たい風が吹く展望台。そこで見た夜景は、もうよく覚えていない。ただ小さな子供のように冬葉にしがみつく藍沢の温もりだけが残っている。
どれくらいそうして抱き合っていたのかもわからない。ただじっと彼女を抱きとめていると、ふいに藍沢が冬葉から離れて「帰ろっか」と立ち上がった。
「ナツミさん……」
思わず名前を呼ぶと顔を俯かせた彼女は「ごめんね」とため息交じりに言った。その表情は暗くてよくわからない。
「夜景、ちゃんと見たかったよね。ごめん。こんな雰囲気壊すようなことしちゃって」
「そんな――」
「……帰ろ? 冬葉」
藍沢は言って冬葉に手を伸ばした。冬葉が立ち上がってその手を取ると藍沢はゆっくり歩き出す。少しだけ冬葉よりも先を歩く彼女の手に力はなく、冬葉が力を緩めれば離れてしまいそうだった。
冷たく柔らかな手をギュッと握ると彼女の手が微かに揺れた。だが、それだけだ。何も言わず、顔を上げることもなく、藍沢はトボトボと駐車場まで戻ると車に乗り込んだのだった。
それから彼女はずっと静かに車を運転し続けていた。ちらりと見た横顔は展望台にいたときより落ち着いているように見える。涙に濡れていた目元は少し赤く腫れていた。
行くときには流れていたラジオは今は流れていない。静かな車内に響いているのはエンジン音だけ。それでも気まずさを感じないのはずっと考え続けているからだろう。
今、彼女は何を考えているのだろう。
どんな想いでいるのだろう。
そして自分が彼女にかけるべき言葉は何だろう。
彼女に応えるべき自分の気持ちは……。
考えても考えても答えが出ないことばかりだ。
冬葉はスマホを取り出して画面を確認する。誰からもメッセージは来ていない。時刻はまだ二十三時を過ぎたところ。蓮華からのメッセージはきっとまだもう少し先。
――蓮華さん。
蓮華と藍沢の関係は想像していた以上に複雑で、とても冬葉が気軽に踏み入ることができるようなことではない。
二人は直接会ったことがないのに互いに遠慮してしまっている。藍沢に至っては蓮華のことを嫌ってすらいるのだろう。それだけの理由が彼女にはある。
それは理解できるのだ。しかし――。
――嫌だな。
藍沢から向けられた気持ちは嬉しい。しかし、その先に蓮華へ対する嫌悪があることが悲しい。話を聞いた限り、蓮華が藍沢に何かしたというわけでもない。きっと何かが行き違ってしまっただけ。
どうしたらいいのだろう。
自分に出来ることは何だろう。
じっとスマホを見つめて考えていると「冬葉」と藍沢が口を開いた。顔を上げて彼女を見たが、彼女は無表情に運転を続けていた。
「ごめんね、今日は。ほんとに」
「……ナツミさんが謝ることなんて、何もないじゃないですか」
しかし彼女は小さく首を左右に振った。
「なんか、あそこに行くと色々と思い出しちゃって……。冬葉の気持ちをちゃんと考えるべきだった」
そう言って彼女は小さく息を吐く。
「びっくりしたでしょ」
「それは――」
否定はできなかった。驚いたのは事実だ。
藍沢の過去、蓮華との関係、そして――。
「本気だからさ、わたし」
彼女は無表情にそう言って「冬葉のこと好きだよ」と続けた。その言葉があまりにも真っ直ぐで冬葉は戸惑ってしまう。
「……えっと、それは、どうして?」
「どうしてって、んー。そうだな」
そのとき彼女は車に乗ってから初めて表情を変えた。どこか恥ずかしそうな、しかし柔らかな表情を浮かべて「素直なところ――」と言葉を続ける。
「いつも頑張ってるところ。妹のことをすごく大事に想ってるところ。優しいところ。それから――」
「それから?」
「ずっと我慢してるところ」
「え……?」
思わず声を漏らすと、藍沢は一瞬だけ視線を冬葉に向けた。そして微笑む。
「詳しい事情は知らないけど、ずっと周りのことばかり考えて生きてきたんだなってわかるよ。冬葉を見てるとさ」
「――そうですか?」
「そうだよ。今だって、そう……」
彼女は沈んだ口調で続ける。
「わたしにどんな言葉をかけようって考えてるでしょ? あと、わたしの告白にどう返事をしたらいいのか困ってる」
「それは誰だって考えると思います。とくに、その、告白のお返事はちゃんと考えるものでしょう?」
「うん。そうかもね。でも冬葉はさ、自分の思いを無視してそれを考えちゃってるだろうから」
彼女は沈んだ口調のまま言って再び微笑む。
「だから、我慢しなくていいからね」
冬葉は目を見開いて彼女を見た。
「我慢して考えて、悩んで……。その結果出した答えに自分の気持ちがないなんて悲しいじゃん。だから、冬葉にはもう我慢してほしくない。冬葉がもう我慢しなくていいように、わたしが隣にいたい。冬葉を見てるとさ、そう思っちゃうんだよね」
冬葉は彼女の言葉を俯きながら聞いていた。
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