第20話

 金曜日。なかなか仕事に集中できず、残業してなんとか切り上げた冬葉は藍沢が運転する車の助手席で窓の外の街並みを眺めていた。

 車はレンタカーなのか、新しい香りがする。車内にはラジオが流れているが、とくに藍沢は聞いている様子でもない。無表情に車を走らせている。

 昨日も今日も藍沢との関係はぎこちないままだった。話しかければ笑顔で返してくれるし、業務の会話も問題ない。しかし以前のように気軽に何でないことを話してくれることはなかった。昼休憩も一緒に過ごしていたものの、彼女は常に何か言いたそうな表情をしてそれを押し込めているようだった。

 コンビニで買った菓子などをつまみながら当たり障りのない会話を続けながら車を走らせ、すでに二時間くらいは経っただろうか。ぎこちない空気はさらに膨らみ、今ではほとんど会話もない。


 ――このままじゃダメだ。


 冬葉は小さく息を吐くと「……藍沢さん」と口を開いた。


「んー? あ、ナツミでいいよ。もう仕事じゃないんだし」

「ナツミさん」


 素直に呼ぶと藍沢は運転しながら少し笑った。


「恥ずかしがるかと思ったのに」

「――聞いてもいいですか?」


 冬葉の口調が気になったのか、藍沢は一瞬だけ視線を冬葉に向けた。そして「怒ってる?」と言った。その声はラジオの音や車の走行音で掻き消されそうなほど小さい。


「怒ってません。ていうか、そもそも怒る理由なんてないじゃないですか」

「……あるよ。わたしが無理に連れてきたから」


 信号が赤になり、車列の動きが止まる。藍沢はまっすぐに前を見ていたが、その表情は落ち込んでいるように見えた。そんな初めて見る彼女の表情に冬葉は思わず笑ってしまう。


「なんで笑うの」

「すみません。なんか新鮮だったので」

「新鮮?」


 怪訝そうに彼女は冬葉に視線を向けた。そのとき信号が青になって前の車が動き出した。


「青ですよ。ナツミさん」

「あ、うん」


 再び車はゆっくりと走り出す。まだどこに行くのか聞いていない。聞いたところでわからないから別に構わない。車は夜の景色へと変化していく街中を進み続けていた。


「――なに?」


 しばらく車を走らせてから藍沢が口を開いた。


「え?」

「聞きたいことって」

「ああ、はい」


 頷きながら冬葉は前方に視線を向ける。


「……たしかに今日の誘いはナツミさんにしては強引だったなって思います」

「うん。ごめん」

「でも理由があるんですよね?」

「理由、か」


 藍沢の横顔に視線を向ける。彼女は考えるようにほんの少し眉を寄せていた。


「――蓮華さん」


 冬葉が口を開くと一瞬だけ彼女の表情が強ばった。冬葉はそんな彼女の横顔を見つめながら続ける。


「彼女と一昨日、話をしたんです」

「……会ったんだ?」

「いえ、通話で。そのときにナツミさんのことを聞きました」


 藍沢は何も言わず、静かに運転を続けている。


「詳しく話してはもらえなかったけど、知り合いなんですよね? ナツミさんと蓮華さん」


 沈黙が続いた。こんなにも藍沢と気まずい空気になったことはない。息苦しさを和らげてくれているラジオの音がありがたい。

 窓の外を流れる風景はいつの間にか街から離れているようだった。山を登っているのかカーブが続く。


「――知り合い、とは違うのかもしれない」


 ポツリと藍沢が口を開いた。


「蓮華さんも似たことを言ってました。だからナツミさんのことを自分が話すことはできないって。自分のことだけど、自分のことじゃないからって」

「そう……。あの子はちゃんと知ってるんだ」


 そう言った彼女の口調はどこか空虚だった。


「ナツミさん……?」

「ごめんね、冬葉。そうだよね。わたしの態度、わけわかんないよね。しかもこんな振り回しちゃってさ。本当にごめん」

「別に振り回されてるとは思ってませんよ。わたしだってナツミさんと遊びに行くのは楽しいですし、誘ってくれるのも嬉しいです」

「そうなの?」


 なぜか驚いたように彼女は目を見開いた。冬葉は首を傾げる。


「そりゃそうですよ?」

「わたしのことウザいとか思ってたりしないの?」

「しませんよ。ナツミさんはステキな先輩です」

「先輩……」


 なぜか藍沢は寂しそうに笑った。そして「ちょっとだけ時間くれる?」といつものように明るい口調で続けた。


「ちゃんと説明するから。でも、頭の中整理するのにちょっと時間が欲しくて」

「大丈夫です。待ちますから」

「うん。ありがとう」


 彼女はそう言うと再び沈黙する。

 窓の向こうには木々の隙間から夜景が見え隠れしている。そこがどこなのか、やはり冬葉にはわからない。ただ、冬葉たちの他にも登っていく車が何台もいるので人気スポットだということは間違いないのだろう。


 ――本当は、もっと楽しくお喋りしながら来たかったな。


 ちらりと見た彼女は沈んだ表情で前方だけを見ているようだった。車内に流れるラジオが二十二時を知らせていた。


 山頂の駐車場にはかなりの車が停まっていた。観光バスも数台停まっているので観光名所のようなところなのかもしれない。


「……ここね、展望台からの景色が綺麗なんだってさ」


 車から降りた藍沢は静かな口調でそう言った。彼女は周囲に視線を向けると「ちょっと人、多いね。これは予想外」と苦笑しながら冬葉を見た。力ない表情だが、さっきまでの気まずい空気はない。冬葉は微笑んで「夜景、楽しみです」と彼女と並んで歩き出す。

 展望台は駐車場から徒歩十分ほど歩いた先にあるようだ。人の流れに乗って歩きながら周囲を見渡すと恋人同士で来ている者が多い。


「やっぱりカップルが多いみたいですね」


 思わず口を開くと藍沢は息を吐くようにして笑った。


「わたしたちもそう見えてるかもよ?」


 驚いて彼女を見ると藍沢は微笑んでいた。そして「なんてね」と呟くように言うと前方に視線を向ける。


「……ナツミさん」

「うん?」

「ここ、前にも来たことがあるんですか?」

「ううん。言ったじゃん。見つけたんだって」

「でも、ナビ使ってなかったですよね? けっこう遠かったのに」


 そう言うと彼女は「バレたか」と困ったように笑った。


「でもほんとに来たことはないよ。昔、ここに来ようと思ってすごく道調べたことあったんだよね。何度もシミュレーションしてさ、それで覚えちゃって」

「何度も……」


 道を覚えるほど地図を見ていたということだろうか。それはただ遊びに来るための計画とは思えない。何か特別な目的があったのだろうか。

 思いながら隣を歩く彼女の横顔を見る。藍沢はぼんやりとした表情で足元へ視線を落としていた。


「――ここ、もしかして大切な場所なんですか?」


 前方に展望台が見えてきた。その上からはたくさんの人たちの楽しそうな声が聞こえる。


「……大切な場所、になるはずだったところかな」


 そう言った彼女を見て冬葉は思わず足を止めた。彼女は微笑んでいた。今にも消えてしまいそうなほど、そして壊れてしまいそうなほど悲しそうに。


「あの、ナツミさん……」


 何か言葉をかけたかった。しかし思いつく言葉は安っぽい言葉ばかりで冬葉は俯きながら口を閉じる。藍沢に話を聞こう。そう決意して来たはずなのに、その決意を後悔している自分がいる。

 いつも楽しそうに笑ってくれる彼女がこんな顔をするのなら何も聞かない方がいいんじゃないか。そう思う自分がいる。


 ――わたしは、自分勝手だ。


 誰にだって話したくないことはある。それなのに自分が蚊帳の外にいる気がするという理由だけで、それを無遠慮に聞き出そうとしている。それは相手にとって辛いことかもしれないのに。

 急に風が出てきて周囲の草たちを揺らす。その草たちのように冬葉の決意も揺らいでいた。

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