第19話

 午後からの藍沢は、やはりいつもと様子が違っていた。

 仕事以外の会話をすることもなく定時になり、冬葉が先に帰るときも何か言いたげな表情をしていたが何を言うこともなく「お疲れ様」と笑顔を浮かべただけだ。

 その表情が気になって、しかしこちらから何かを聞いてもきっと彼女は答えてくれないこともわかっている。

 ため息を吐いて帰りながらスマホを見るとメッセージが二件届いていた。


 ――蓮華さんと、藍沢さんだ。


 歩きながら後ろを振り返る。職場のビルはもう見えない。藍沢からのメッセージには『金曜日、楽しみにしてる』という短い文だけがあった。冬葉は少し迷ってから『よろしくおねがいします』と返信を送る。それはすぐに既読となったが、返信が来る様子はなかった。


 ――金曜日、か。


 今日は水曜だ。金曜まではあと二日。明日になれば藍沢は元の彼女に戻っているだろうか。それとも今日のように少しぎこちない雰囲気のままだろうか。そんな状態でも彼女は冬葉と一緒に遊びに行きたいと思ってくれるのだろうか。

 モヤモヤとした気持ちを抱えたまま蓮華からのメッセージを開く。


『いつでも。待ってる』


 こちらも短い文章。文字からは彼女の気持ちはわからない。


 ――迷惑だったりしないかな。


 モヤモヤとした気持ちは自然と思考をマイナス方向へと誘導するのか、そんなことを思ってしまう。

 何時くらいならば大丈夫だろう。

 あまり夜遅いと家の人に迷惑だろうか。しかし、いつも公園で会うのは深夜だ。だったらやはり同じくらいの時間帯がいいのだろうか。

 そんなことを考えながら家に帰った冬葉は、とりあえず気持ちを落ち着けようと冷凍食品で簡単に夕食を済ませた。

 そして畳の上に正座をすると時間を確認する。

 二十一時を回ったところ。少し早いだろうか。しかし、明日は平日だ。冬葉も今日はあまり夜更かしはできない。


「よし」


 話したいことを頭にイメージしながら冬葉は蓮華へ通話をかけた。スマホの向こうでコール音が鳴る。一回、二回。そして三回目の途中で「もしもし」と柔らかな声がした。


「あ、あの、桜庭です」

「うん、知ってる」


 少し笑いを含んだ声は面白そうに「なんで緊張してるの?」と言った。


「いや、あの、かけるの初めてだから」

「あー、ね。待ってたのに全然連絡くれないんだもんなぁ」

「え! ごめんなさい! なんかタイミングがつかめなくて、その」


 すると蓮華は「ウソだよ」と笑った。


「本当に冬葉さんは冬葉さんだよね」

「えーと、それは褒められてます?」

「もちろん」


 だったらいいか、と納得してから冬葉は「今日はこんな時間にすみません」と謝った。


「だーから、硬いって。普通に話してよ。いつも公園で話してるみたいにさ」

「あ、はい」


 そう言われても目の前に彼女がいないので、どうしても緊張してしまう。


「なんならビデオ通話にする?」

「そっちの方が話しやすいかもしれません」

「おっけ。ちょっと待って」


 言って少しだけ無音の時間が続く。画面を見つめているとパッと蓮華の顔が映し出された。冬葉もビデオ通話に切り替える。


「こんばんは。冬葉さん」


 いつも公園でするように彼女は柔らかな表情で挨拶をする。その様子に安堵しながら冬葉も「こんばんは。蓮華さん」と微笑んだ。


「ふうん。そこが蓮華さんの部屋か。和室?」

「そうです。古いアパートで」

「へえ。趣が合っていいね」

「一応、リフォームはされてるんですよ?」

「でも和室ってだけで趣あるよね。わたし、和室のある家に住んだことないから」

「ああ、なるほど」


 蓮華は自分の部屋にいるのだろうか。背景の壁は真っ白で、どんな部屋なのかわからない。


「それで、今日はどうしたの? 声でも聞きたくなった?」

「それもありますけど」

「あるんだ」


 彼女はフフッと笑う。ぼんやりしていて思わず本音が出てしまった。冬葉は慌てて「いや、その、理由は違くて!」と慌てて誤魔化した。


「うん、ごめんね。なに?」


 蓮華は申し訳なさそうに微笑んで首を傾げた。


「えっと、明後日なんですけど、もしかしたら行けないかもしれなくて」

「そっか。それを伝えるためにわざわざ?」


 意外にもあっさりとした答えに冬葉は少しだけ落ち込んでしまう。


「あ、誤解しないでよ? 別に冬葉さんと会えなくても平気とかそういうんじゃないから」

「そうなんですか?」

「それはそうだよ。一週間の中で唯一の楽しみなのに。でも、今はこうしてお喋りができるから寂しくはあっても悲しくはないから」

「そうなんですか……」

「そうなんですよ。冬葉さん」


 蓮華の笑みは優しい。冬葉も自然と微笑んでいた。


「何か用事? 金曜日」

「あ、はい。職場の先輩から夜景を見に行こうって急に誘われて断れなくて」

「先輩……」

「普段はそんなことないんですけど、今回はちょっと強引だったというか」

「その先輩って、藍沢さん?」

「はい」


 冬葉が頷くと蓮華は少し考えてから「もしかして」と少し声のトーンを落とした。


「わたしのこと話したりした?」

「……はい。話の流れで、つい名前を出してしまって」

「そっか。やっぱり……」


 彼女はそう言うと微笑んだ。それはさっきまでの優しい笑みではない。悲しそうな笑みでもない。なんとも言えない、複雑そうな微笑みだった。


「――知り合い、なんですか?」


 聞くと彼女は顔を俯かせた。そして少しの沈黙のあと「どうかな」と顔を上げて首を傾げた。


「知ってるけど知らない。たぶん向こうも同じだと思う」


 意味が分からず冬葉は眉を寄せる。


「それってどういう……?」

「うん……」


 彼女は頷き、しかし「今は話せない」と言った。


「ごめんね。わたしが話してもいいことなのかどうか、わからないんだ」

「蓮華さんのことなのに?」


 しかし彼女は困ったように首を横に振った。


「わたしのことだけど、わたしのことじゃないから」

「意味がわからないですよ」

「だよね。でも、ごめんね」


 ごめん、と彼女は謝る。謝って欲しいわけじゃない。話せないことがあるのは当然のことだ。それでも心のどこかでモヤモヤしてしまうのは、自分だけが蚊帳の外に置かれているような気がするからだろうか。

 蓮華のことをもっと知りたい。

 藍沢のことも知りたい。

 それなのに冬葉と彼女たちの間には深い溝がある。それが悲しいのだろうか。

 考えていると「ねえ、冬葉さん」と蓮華が小さな声で言った。


「金曜日は会えないかもしれないけどさ、その代わりにメッセージを送るよ」

「メッセージ?」

「そう。きっとそれを見ればわたしのことがわかる。そんなメッセージ」

「なんですか、それ」


 思わず冬葉が笑うと彼女は安心したように笑った。


「良かった.笑ってくれた」


 そう言った彼女の笑みは優しく、そして切なそうに見える。


「楽しみにしててよ。気に入ってもらえるかわからないけど、頑張るからさ」

「え、なにを?」

「内緒」


 いたずらっ子のように彼女は笑って人差し指を口元に当てる。


「当日までのお楽しみだからね」

「えー、気になりますよ」

「だからだよ」

「え……?」

「わたしがメッセージを送るまでは、きっと冬葉さんはずっとわたしのことを考えてくれるでしょ?」


 柔らかな声で彼女は言う。からかうわけでもない。普通のことのように彼女はそう言って笑った。切なそうな表情で。


「蓮華さん……?」

「わたしさ、冬葉さんと会えて本当に良かったなって思うんだ。冬葉さんの言葉に、笑顔に、すごく救われてた」

「え、ちょっと待ってください。なんでそんなこと」

「だから、ありがとう」

「待ってください。なんでそんな……。まるでこれで最後みたいなこと。嫌ですよ? また来週の金曜日には、あの公園で待ってますから」


 冬葉が言うと彼女は笑みを深めて「うん。わたしも待ってるよ」と言った。


「じゃあ、明日も仕事でしょ? そろそろ寝ないと」

「蓮華さん……」

「おやすみ、冬葉さん」

「――おやすみなさい」


 蓮華の手が動く。通話を終了させようとしているのだろう。しかし、画面には蓮華が映し出されたままだ。


「冬葉さん」


 ふいに視線を上げ、彼女は口を開いた。冬葉は返事をしながらじっと彼女の顔を見つめる。彼女もまた冬葉の顔を見つめる。

 そうしているうちに、彼女は僅かに瞳を揺らすと小さく息を吐くように言った。


「好きだよ」

「え……?」


 画面から蓮華がいなくなってしまった。最後に見た彼女の顔は、とても悲しそうだった。


 ――どうして。


 冬葉は胸に手を当てた。胸が苦しい。何かに締めつけられるような、そんな感じだ。

 冬葉のことが好きだと彼女は前にも言っていたことがあった。冗談のように。しかし、今の言葉はそれとは違う。

 その意味はきっと友達に対するような気持ちとも違う。もしそうならあんな顔はしないはずだ。彼女の瞳は悲しそうに揺れていた。まるで冬葉の気持ちは同じではないと決めつけているように。


 ――わたしは。


 胸に当てた手をギュッと握る。分からない。自分の気持ちがわからない。それでも蓮華の声を聞きたいと思う自分がいる。

 隣にいたい。近くでその笑顔を見ていたい。そう思う自分がいる。

 その気持ちの正体なんてわからないけれど、それでも蓮華にあんな顔をさせたままでいるのは嫌だ。


 ――藍沢さんに聞こう。


 はぐらかされても、それでもしつこく聞こう。もしそれで彼女に嫌われてしまったら悲しいけれど、このまま蚊帳の外にいるのは嫌だから。

 自分の知らないところで大切な人たちが何かに苦しんでいるのは嫌だから。

 スマホの真っ暗な画面を見つめながら、冬葉はそう心に決めた。

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