第四章
第14話
待ち合わせの時間は午前十時。さすがはゴールデンウィークというべきか、平日であるにも関わらず人出は多い。待ち合わせよりも一時間前に駅に着いた冬葉はぼんやりと改札機を通って出てくる人たちの姿を見ながら「多いねー」と呟いた。
「ていうか、お姉ちゃん」
「んー?」
「早すぎない?」
隣で同じように改札の方を見ていた紗綾が言った。冬葉は苦笑する。
「やっぱり?」
「いくらなんでも一時間前は張り切りすぎだと思う」
しかしそうは言いながらも彼女の表情は不満そうではない。むしろ楽しそうである。昨日、寝る前の会話を忘れてしまったかのように紗綾の態度は普通だった。
元々ケンカをしてもすぐに仲直りする姉妹ではあるが、昨日のあれはケンカとも言えない。どちらかが謝るようなことでもない。だからこそギクシャクしたらどうしよう。そう思っていたのだが杞憂だったようだ。
「まー、お姉ちゃんのことだから先輩を待たせるわけにはって思ったんだろうけど」
紗綾はキョロキョロと周りを見渡しながら続けた。
「紗綾」
「なに?」
「もしかして探してる? 藍沢さんのこと」
「正解」
紗綾はニヤリと笑った。
「だって、お姉ちゃんが一時間前に来たってことは藍沢さんも待ち合わせ時間より相当早く来るタイプなんでしょ? だったらきっともうすぐ来るんじゃないかなぁって」
紗綾の読みは鋭い。先日、藍沢と一緒にカフェへ行ったときも同じように待ち合わせをしたのだが彼女の方が早く来ていたのだ。待ち合わせの二十分前に到着したにもかかわらず、だ。
何時から来ていたのか聞いても教えてくれなかったが、さすがに一時間前には来ていないだろうと予想して今日の出発時刻を決めた。予想は当たっていたようだ。
「お姉ちゃんの話だと普通に歩いてても目立ちそうな感じなんでしょ? わたしでもわかるかなぁと思って――」
紗綾は言葉を途中で切ると「もしかして、あの人?」と人混みの中を指差した。そちらに視線を向けると一人の女性が姿勢良くこちらに向かって歩いて来る。なんとなく周囲から目立って見えるのはその雰囲気だろうか。あるいは姿勢の良さか。
「遠目でもなぜか美人ってわかるんだけど……。なんで?」
紗綾も不思議そうに首を傾げている。
「綺麗な人ってさ、影すらも美人じゃない? だからだよ」
「……わかるんだけどまったくわかんないよ、お姉ちゃん」
呆れた声で紗綾は言う。そうこうしているうちに「あれ? 桜庭さん?」と驚いたような藍沢の声が聞こえた。いつの間にか藍沢が目の前に立っている。
「ごめん。わたし、もしかして時間を間違えてた?」
彼女は困惑したように腕時計に視線を向けた。
「いえいえ!」
慌てて冬葉は首を横に振る。そして「前回は藍沢さんが先に来ていたので、今回は負けないぞと思いまして」と軽く片手に拳を握った。藍沢は一瞬きょとんとしたが、すぐに吹き出すようにして笑う。
「なにそれ。何の勝負してんの?」
そして紗綾に視線を向けて「おはようございます。あなたが妹さん?」と首を傾げた。紗綾は「おはようございます! 桜庭紗綾です!」と元気よく頭を下げる。
「初めまして。藍沢ナツミです。桜庭さんだと紛らわしいから紗綾ちゃんって呼んでもいいかな?」
「はい、もうなんでも。あ、じゃあわたしもナツミさんって――」
「紗綾、調子に乗らないの。わたしだって藍沢さんって呼んでるんだから」
思わず紗綾を止めると藍沢が「じゃあ、桜庭さんもわたしのことナツミって呼んでよ。わたしも冬葉って呼ぶし」と冗談とも本気ともつかない口調で言った。
「え……?」
この場合、どうするべきなのだろう。先輩がそうしろというのならそうするべきだろうか。友人であるなら名前呼びも普通なのかもしれない。しかし藍沢は職場の先輩だ。そんないきなり慣れ慣れしく呼んでもいいものだろうか。
考えていると「それがいいよ。お姉ちゃん」と紗綾が言った。
「やっぱり桜庭さんって呼ばれるとわたしも反応しちゃうしさ。名前呼びの方が分かりやすくていいよ」
「それはそうなんだけど……。あ、だったらわたしのことは名前で呼んでください。わたしが藍沢さんを下の名前で呼ぶのはちょっと――」
「え、嫌? 呼びたくない?」
藍沢が悲しそうに眉を寄せた。
「いえいえいえいえ。そうじゃなくて! だって先輩なのに」
すると彼女は「いいよ、そんなの」と笑う。
「だって今は仕事じゃないもん。友達だから名前呼びも普通。だよね? 紗綾ちゃん」
「そうですね! 普通です」
なぜ紗綾は初対面の藍沢とこんなにも息ぴったりなのだろう。冬葉はため息を吐くと「わかりました」と頷く。
「じゃ、呼んでみて?」
藍沢はまるで子供のような笑みで冬葉に言う。その隣に立って紗綾も同じような表情で冬葉を見てくる。
「えー……」
「呼んでくれないと今日は帰ろうかな」
「えー、そんなことになったらわたし悲しすぎるんだけど」
まるで昔からの友達だったかのような二人のノリに冬葉は深くため息を吐く。そして藍沢に視線を向けた。頬が熱い。改めて藍沢を下の名前で呼ぶにはひどく勇気がいる。じっと見つめる彼女の顔には、なぜか期待したような表情が浮かんでいた。
「……ナ、ナツミさん」
勇気を振り絞って彼女の名前を呼ぶ。すると藍沢は心から嬉しそうに笑みを浮かべて「うん。行こうか、冬葉。紗綾ちゃん」と冬葉と紗綾の肩に手を置いた。
「行きましょう! 電車ですか?」
「そう。三番ホームね」
「はーい」
紗綾が嬉しそうに改札に向かっていく。冬葉はその背中を見失わないように目で追いながら力の入らない一歩を踏み出した。その様子に気づいた藍沢が首を傾げる。
「どうしたの?」
「……なんか、すみません」
「え、何が?」
「いや。なんか気を遣っていただいたんですよね? 紗綾に」
きっと紗綾が初対面で緊張しているだろうと思って接しやすい雰囲気を作ってくれたのだ。藍沢のテンションがいつもと少し違うのはきっとそのせいだろう。そう思ったのだが、彼女は「ううん? 違うけど」と心から不思議そうに首を傾げた。
「え、違うんですか?」
「うん。ただ名前で呼んで欲しかっただけ。無理言っちゃってごめんね、冬葉。でもすごく嬉しい」
そう言って彼女は子供のように笑う。
「え、どうして――」
「お姉ちゃん、ナツミさん! 早くー」
紗綾の声が響いた。冬葉は「わかったから大きな声出さないでよ、紗綾」と答えてから藍沢を見る。藍沢は優しい表情を紗綾に向けてから「行こう、冬葉」とその笑みを冬葉に向けた。
「あ、はい」
彼女と並んで紗綾の元へ向かいながら、なんとも言えないむず痒さに頬が熱くなる。
――落ち着かない。
蓮華から名前を呼ばれたときも似たような感覚だった。慣れないからだろうか。それとも名字呼びだったのがいきなり名前呼びになったからだろうか。
よくわからない感情は温かくて悪くはない。それはきっと家族以外から名前を呼ばれることが今までの人生でそうなかったからだろう。
冬葉は自然と笑みを浮かべながら楽しそうにお喋りをする紗綾と藍沢の隣に並んだ。
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