第9話
「あー……。ごめん、なんでもない」
「え、でもトマトって」
すると藍沢は苦笑して「前までよく一緒にご飯食べてた子がね」と言いながらサラダを見つめた。
「トマトが嫌いで、よくもらってたから」
その視線がなぜかとても悲しそうに見える。もしかすると、その子とよくここに来ていたのだろうか。そう思ってから冬葉はさっきの会話でなぜ藍沢がきょとんとしていたのか理解した。
このお店にはその子とよく来ていて、何か事情があってその子とは来れなくなってしまった。だから一人で来たくなかったということだったのでは。楽しい思い出があるお店に一人で来るのは嫌だったから。
とんだ勘違いに気づき、冬葉は赤面しながら顔を俯かせた。
「あれ? どうしたの。桜庭さん」
「いえ……。あの、いただきます」
「うん。食べよっか……?」
不思議そうにしながら藍沢もサラダに手を伸ばす。そうしながら「それで、どうする? この後」と彼女は言った。
「あ、そうでしたね。藍沢さんはどこか行きたいところとかありますか?」
「んー、そうだな。しいて言うなら」
「言うなら?」
「桜庭さんの行きたいところかなぁ」
「わたしの行きたいところ、ですか」
「別にないのなら、映画とかでもいいけど」
藍沢は無邪気な笑みで言う。つまり、どこでもいいのだろうか。たしかにせっかくの休日にこうして出てきてくれているのだ。ご飯だけ食べて別れるのは申し訳ない気がする。しかし……。
「一応行きたいところはあるんですけど」
「どこ?」
しかし、自分の用事に職場の先輩を付き合わせてしまって良いものだろうかと冬葉は迷う。
「いいよ。どこでも」
藍沢の優しい言葉に冬葉は「じゃあ」と口を開いた。
「電気屋さんに」
「電気屋さん?」
「はい。あの、洗濯機を買いたくて。お給料も出たので」
「買い換えるの?」
首を傾げる藍沢に冬葉は「いえ」と俯きながら笑った。
「家にないんですよ。洗濯機。だから買わなくちゃいけなくて」
「え……。今までどうしてたの?」
「コインランドリーで済ませてました。でも、さすがに買いなさいって妹に言われて。本当はテレビを買おうかと思ってたんですが、優先順位は洗濯機が先だって言われちゃって」
すると藍沢は「妹さんの方がしっかりしてるね」と声を上げて笑った。返す言葉もなく冬葉は苦笑する。
「うん。じゃ、近くの電気屋さん行こうか。ついでにテレビも候補決めたらいいんじゃないかな」
「あ、そうですね! テレビ買ったら藍沢さんオススメのドラマも見られるので楽しみです!」
「ほんと桜庭さんて子犬みたいでかわいいよね」
「え?」
しかし藍沢は首を横に振ると「早く食べちゃおう。冷めるよ?」とフォークを持つ手を動かした。
電気屋はカフェから徒歩で行ける距離にあった。大きな複合店のワンフロアに入っているらしい。
「知りませんでした。ここに電気屋さんがあるなんて」
「この辺りのことならわたしにお任せあれ。わたしがこの辺りに越してきたときもこうやってここで家電揃えたんだよね」
藍沢は得意げに言うと洗濯機のコーナーへ向かう。
「趣味が合わなくてケンカしたりもしてたけど――」
そこまで言って藍沢はハッとしたように口を閉ざした。
「以前もどなたかと一緒に家電選びを?」
「あー、うん。まあ」
一緒に家電を選んだということは一緒に住んでいる人がいるのだろうか。藍沢が結婚しているという話は聞いたことがない。では同居人がいるのか。あるいは彼氏と暮らしているのか。
考えていると藍沢が深くため息を吐いた。
「――ダメだな。テンションおかしくなってる」
「え?」
「ごめん。なんでもないから気にしないで」
藍沢はそう言って前方に視線を向けると「そういえばさっき、カフェのメニュー撮ってたけど誰かに見せるの?」と話題を変えるように言った。冬葉は頷く。
「こないだお菓子をあげた恩人さんに。そういえば、すごく美味しかったです。あのお菓子」
「でしょ? って、あれ? お礼にあげたんだよね? 恩人さんに」
「あ、はい。でも、持って帰っても家の人に食べられちゃうからってその場で一緒に食べちゃって」
「なるほど」
藍沢は笑う。
「それで、彼女にお店にはカフェもあるって伝えたら行きたいって言ってたので、メニューを見て気に入ってもらえたら一緒に行きたいなって」
「へえ? 友達なんだ?」
友達、と冬葉は口の中で呟いてから首を傾げた。
「そう思ってもらえてたらいいんですけど」
「違うの?」
「まだよくわからなくて。でもすごく良い子なんですよ。お喋りも楽しくて」
「ふうん? あ、ここだね。どれにする? 洗濯機」
気のせいか、少しだけ藍沢の声が固くなった気がする。態度も何となく素っ気ない。何か気に障るようなことを言ってしまっただろうか。考えてみたがよくわからない。
藍沢を見つめていると彼女は「どうしたの」と不思議そうに冬葉を振り向いた。その表情はさっきまでと変わりない。
――気のせいかな。
その後も藍沢の様子は変わらず優しくてにこやかだった。しかし、ときどきぼんやりと家電を見つめている空虚な表情がひどく気にかかった。
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