第5話

 まだ少し夜は冷える。冬葉は両手に温かいココアの缶を持って公園に向かっていた。本当は水筒に珈琲を淹れていこうとしていたのだが、紗綾に止められてしまった。


「お姉ちゃんだけが飲むためなら止めないけど、もしその恩人さんに分けるつもりなら、ちゃんと自販機とかコンビニで買ったものにしなよ。ていうか、深夜に珈琲ってどうなの」


 たしかにその通りだ。先週、彼女は言っていた。寝る前の散歩だと。だったらカフェインのあるものはよくないだろう。かといってココアが良いのかどうかもよくわからないが。

 思いながら冬葉は公園への道を歩く。スマホを確認すると時刻は二十三時五十分。


 ――もう来てるかな。


 それとも来ていないだろうか。そもそも本当に来てくれるだろうか。先週の言葉は気まぐれで、もう二度と会えないかもしれない。

 公園が近づくにつれてそんな不安が広がっていく。そのとき、微かに聞こえた歌声に冬葉はハッと足を止めた。

 風に運ばれてくるのは優しい童謡のようなメロディ。どこかで聞いたことがあるようで、しかし知らない曲のような気もする。

 歌声に誘われるように足を進めた冬葉は公園の入り口で再び足を止める。

 公園中のライトが降り注ぐブランコに座る少女。彼女はユラユラと軽くブランコを揺らしながら目を閉じ、歌を口ずさんでいた。それはとても優しくて心を包み込んでくれるような歌声。

 ライトを受け、凜と背筋を伸ばして歌う彼女の姿はとても言葉では表現できないような美しさだった。

 歌に聴き惚れていると、ふとその歌声が止まった。気づくと彼女が冬葉に視線を向けている。


「なんだ、来たんだったら声かけてよ。桜庭さん」


 柔らかな表情で彼女は言う。冬葉は「あ、ごめんなさい」と慌てて謝った。


「その、綺麗な歌だったからつい……」

「聴き惚れちゃった?」

「はい」


 頷いた冬葉に彼女は目を丸くする。そして照れたように笑ってから「お隣、どうぞ」と空いているブランコに手を向けた。


「あ、失礼します」


 声をかけてから隣のブランコに腰掛けると「さっきの歌、なんていう曲ですか?」と訊ねた。


「んー? さあ」

「え……」

「適当だよ、適当」


 オリジナルということだろうか。もしそうなら、かなりすごいことなのではないだろうか。思いながら彼女を見つめていると「それにしても桜庭さん、器用だね」と少し呆れたような表情で彼女は言った。


「え?」

「それ。よく両手に持ったままブランコ座れたなって。実はけっこう体幹しっかりしてる系?」


 彼女は言いながら冬葉の手元を指差した。そのとき、ようやく冬葉は自分がココアの缶を両手に持ったままだったということを思い出す。


「あ、ただ忘れてただけです」

「……普通忘れるかな。手に持ってること」


 冬葉は笑って誤魔化しながら「これ良かったらどうぞ。まだ夜は冷えるから」とココアを一本差し出した。


「いいの?」

「そのために買ってきたので」

「そっか。ありがとう。確かに今日はちょっと冷えるよねー」


 彼女は嬉しそうにココアを受け取るとさっそくプルタブを開けた。冬葉は自分の缶は地面に置いてから「それと」とバッグからお菓子が入った袋を取り出す。


「これも」

「え、なに?」

「先週のお礼です」

「ああ、本当にくれるんだ?」

「当然です。お口に合うかわかりませんが」

「てことは食べ物だ? ありがとう。開けてもいい?」

「どうぞ」


 なんとなく緊張しながら冬葉は彼女が袋を開けていく様子を見守る。


「あ、お菓子がいっぱいだ! しかも美味しそう」

「――あの、実はそれ、あまり賞味期限がなくて」


 言おうかどうしようか迷ったが、言わないよりは言っておいた方がいいだろう。彼女は「そっか。じゃあ一緒に食べよ」と袋から一つを取り出して冬葉に差し出した。


「え、いやいや。それはお礼に差し上げたものなので」

「いいじゃん。家に持って帰ったら海音かいねに食べられちゃうのがオチだもん」

「海音、さん?」

「あ、居候している家の主」

「え?」

「まあ、だから他人に食べられるよりも一緒に食べちゃった方がいいでしょ? 食べようよ。ちょうどココアもあることだし」


 彼女はそう言ってココアの缶を軽く左右に振った。冬葉は微笑んでから「じゃあ、いただきます」とクッキーを一つもらう。


「おー、これおいしいね。桜庭さん行きつけのお店なの? 店名、オシャレすぎて読めないけど」


 クッキーを一つ口に放り込み、彼女は袋に貼られた店名シールを見つめている。


「職場の先輩に教えてもらったお店なんです。そこ、カフェもやってるみたいなんですよ」

「へー、いいね。行ってみたいな」

「行ってみたいですよねー」

「行けるでしょ、桜庭さんは」

「今のところ、万年金欠なもので」


 冬葉の答えに彼女は笑った。そしてまた二人並んでお菓子を食べる。

 少し冷たかったはずの空気が気のせいか温かく感じる。居心地の良いゆったりとした時間だ。こんな穏やかな時間を過ごすのはいつ振りだろうか。


「良いね」


 まったりとお菓子を味わっているとふいに彼女がそう言って微笑んだ。


「え?」

「今日の桜庭さん、良い感じだよ」

「え、そうですか? えと、何が?」


 首を傾げると彼女は「何がって……」と冬葉をじっと見つめる。


「よくわかんないけど」

「何ですか、それ」

「雰囲気、かな。先週よりも全然良い」

「そりゃ、今日は鍵を無くしてませんから」


 たしかに、と彼女は笑う。そして鼻歌を口ずさみ始めた。さっきとは違う曲。しかし、心に染みこんでくる優しい歌声。これもオリジナルなのだろうか。


「――歌、好きなんですね」


 しばらく聴き入ってから冬葉は口を開いた。


「そう思う?」

「思うっていうか、そう感じます。とても優しい歌声だから」

「ふうん?」


 彼女は少し顎を上向かせると何か考えるように首を傾げた。そして手に持っていた小さなマフィンを食べ終えてから立ち上がる。ガシャンとブランコの鎖が鳴った。


「お菓子も無くなっちゃったし、そろそろ帰ろっか」

「あ、そうですね」


 冬葉は慌てて手に持っていたマドレーヌを口に放り込む。そうしている間に彼女は冬葉の目の前に立つと腰を屈めてきた。綺麗な顔が目の前に迫り、冬葉の心臓が大きく脈打つ。


「わたしの歌が優しく聞こえたのなら、それはきっと桜庭さんといるからだよ」

「えと、あの……?」


 戸惑っていると彼女は柔らかく微笑んで冬葉の口元にそっと触れた。


「マドレーヌの欠片、口元につけてる人初めて見た」


 彼女は子供のように笑うと冬葉の口元に触れた指先をぺろりと舐めた。


「え、ウソ! 付いてました?」

「付いてました。そしていただきました」

「なんで食べちゃうんですか。捨ててくださいよ」

「やだ。もったいないじゃん」


 からかうように彼女は笑うと「じゃあ、今日は帰るね」と手を振る。


「あの!」


 慌てて冬葉は立ち上がった。反動でブランコが少し大きめな音を立てる。彼女は不思議そうに「急にどうしたの、勢いつけて」と首を傾げた。


「いえ、その……。まだわたし、あなたの名前を知らないなって」

「神様って言ったじゃん?」

「真面目に!」


 少し頬を膨らませると彼女は「ごめんって。怒らないでよ」と困ったように笑みを浮かべた


「わたしは蒼井あおい蓮華れんか。以後、お見知りおきを」


 蓮華は優雅に一礼してみせる。


「蒼井蓮華、さん」

「フルネームはガチガチだから嫌いだなぁ。レンとかレンカでいいよ」

「じゃあ、蓮華さん」

「……まあいいか。それであなたは? 桜庭さん」

「え、わたしは桜庭ですけど」

「それは知ってる」


 蓮華は呆れたように笑う。


「わたし、桜庭さんの下の名前は聞いてないんだけど?」

「あ、そうですよね。すみません。冬葉です」

「冬葉。冬葉か……。良い名前だね。なんか白い感じがする」

「白い……?」


 しかし蓮華は嬉しそうに頷くと「じゃ、今日は帰るね。お菓子とココア、ありがとう」と踵を返した。


「あ、あの――」


 また来週も会ってくれますか。そう言おうとして言葉を呑み込む。

 会ったとして何をしようというのだろう。もうお礼はした。それ以上の用事は特に思いつかない。それでもまた彼女と会って、この穏やかな時間を一緒に過ごしたいと思う自分がいる。


「また来週、金曜が土曜に変わる頃にここにいるよ」


 彼女はそう言うと公園を出て行った。


「……また会ってくれるんだ」


 不思議な感覚が胸に広がっていく。ムズムズするようなこの感覚は何だろう。嬉しい気持ちに似ている、だけどそれとは少し違うような……。

 冬葉は彼女の指が触れた口元に手をやる。


「――すごく、綺麗だったな」


 ポツリと呟き、そして急に恥ずかしくなって両手で顔を覆う。


 ――帰ろう!


 冬葉は鞄を手にすると急いで帰宅した。

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