第21話 

──大きく息を吸うと、鍵盤に指を置きオーケストラの部分から弾き始める。


 そして違和感なくピアノの独奏部分にへと繋げていった。

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートヴェン作曲、ピアノ協奏曲第5番変ホ長調作品73『皇帝』第一楽章。

 『皇帝』と名付けたのはベートヴェンと同世代の作曲家兼ピアニストのヨハン・パプティスト・クラーマーだとされている。

威風堂々とした曲の雰囲気に合わせて名付けたようだ。

 若汐は思い出す。

 大学時代、卒業演奏の為にコピーした楽譜に教授からアドバイスされたことをみっちりと隙間なく書いていたことを。

 それで楽譜が読めなくなってしまい、またコピーし直したことを。

 弾けないと思っていた所を何度も繰り返し練習しては覚えて弾いていたことを。

練習の成果が初めて出た時の、あの喜びを。


──若汐のピアノの師は郎世寧と同じ碧眼だった。


外国人の教授だったのだ。

 郎世寧が見守る碧眼は、ここには居ないはずの師が隣で弾いているかのような錯覚を覚えた。

レッスンを見てもらっているかのように思える。それなら緊張などしない。


──思い切り、自身の実力を出せると若汐は意気込んだ。


もうこのピアニストには恐れも緊張もない。

ただ、己の想う音楽を伝える為だけに奏でている。


音楽は素晴らしいものだと伝える為に、そのシンプルなメッセージを伝える為に、彼女は奏で続けている。


この曲をオーケストラと一緒に弾いて皆に聴かせることが出来ないということだけが残念だった。



──乾隆帝は唖然としていた。


 様々な東洋の楽器に彼は触れてきた。

乾隆帝は耳がとても良かった為、楽師が間違えた演奏をすれば即座に分かった。

 だがこの西洋の楽器はどうだ。

郎世寧に聞けば、鍵盤は西洋の数字で88もあるのだという。

 少女はそれを最も容易く操っている。

あの、小さな手のひらでだ。

 黒い鍵盤と白い鍵盤、音色が違うことだけは分かるが具代的にどのように違うかは乾隆帝には知識がない為わからない。

 前回、少女が弾いた曲よりも今日の曲はとても激しい動きをしている。

だがその動きが乱れることは決してない。

 指の動きもとてもきめ細やかなものであった。

そして音色も美しいのは変わりなかった。

 ピアノではない部分はどこから声を出しているのか不思議な歌声で補っている。

 それが腹式呼吸と呼ばれる呼吸法であることを皇帝は知らない。


(素晴らしい…これが、郎世寧が言っておった西洋の音楽というものか。)


 時の皇帝を、偶然にも同じく名付けられた曲『皇帝』という1曲が心を動かした。

まだそのことに、若汐本人は気がついていない。


──20分後。


 長い演奏であったが乾隆帝が飽きるということは不思議となかった。

第一楽章を弾き終えた若汐は静かに立ち上がり、いつものようにお辞儀をした。

 若汐にとっては普通の所作であったが、それはまるで西洋の舞踏会が終えた後のお辞儀のようで。

乾隆帝はその一連の動作に見惚れてしまっていた。


──この娘を奴婢にしておくのはあまりにも勿体無い。


そう考えた乾隆帝は表情には出さず、良く弾きこなしたと若汐を褒め称えた。


「有り難き幸せにございます。」

「素晴らしかったですよ、若汐。」


 乾隆帝から少し離れた所から郎世寧が称賛の拍手を贈っている。

 ピアノの基礎を教えたのは郎世寧だと乾隆帝は聞いたが、果たしてそれは本当なのか。

そう思わされてしまうほどであった。

事実、彼女は1度も郎世寧から教わったことはない。

現代からの実力そのものである。

乾隆帝の認識は正しい。

 だが2人ともそのことについては口裏をしっかり合わせており、それが明かされるということはなかった。

 郎世寧は墓まで持っていく覚悟で口を堅く閉ざしていた。


「朕は政務に戻る。若汐と言ったな、郎世寧の女官としてしっかり励め。」

「はい、陛下。」


 内心、少しばかり緩む若汐。

20分以上の演奏。

流石の若汐もかなり集中していたので疲れが押し寄せていた。

 もちろん、乾隆帝の前でその疲れは一切見せることはないが。

これで自分に興味を失っただろうと彼女は考えた。

 皇后も若汐に一時知的に自身の女官にしたいと興味を持っていたが、郎世寧付きの女官だという理由でその話はなくなった。

なら、皇帝も自分のような特筆すべき点がない人間に興味などないだろう。

 そう。ただ、ピアノが弾ける少女など。

そう考えていたのだ。

だがその若汐の考えは現代に染まり過ぎていたと言える。


──もはやそれは手遅れの考えだなんてそんなことは、皇帝以外誰も知る由もない。



 養心殿。

乾隆帝は政務を行う金色に装飾されている玉座に座っていた。

机には大量の書簡が積まれている。

それをじっと見つめるだけで乾隆帝が思い出すのはあの少女のことであった。

 高潔さに満ちた笑顔と所作に自分の心さえ動かしたあの演奏。

ただの郎世寧の女官にしておくにはあまりにも惜しいと考えていた。


李玉りぎょく。」

「はい、陛下。」


 乾隆帝の側使えである宦官の李玉がすかさず近くに寄る。

そして小声で李玉に何かを指示した。

 腰を曲げたまま、「御意」と言うと李玉は下がった。

皇帝は親指につけている翡翠の指輪をくるくると回しながら、先程のことを思い出していた。


──今でも目を瞑れば聞こえるあの美しい音色。


 まるで絵の具の色がついているような音だった。

 一音一音にそれぞれ別の色が付いており、鍵盤は筆のようで絵を描いているかのようであった。

その色の付いた音色は天上に届いてしまうかのような音で。

 心を動かすな、という方が無理な話だった。

女の価値は容姿だけではないのだと改めて思わせられた日でもあったものである。

 机に置かれていた入れたての茶を飲もうと茶器に手を伸ばす。


──あんなに小さな手であの数の鍵盤を操っていたことを思い出した。


 自分の手よりも明らかに小さい。

あの少女には元々演奏家としての才能があったのだろう。

そして才能に驕らずに努力を続けた結果があの演奏だったのだろう。


──そうでなくては誰かの心を動かすなど、ましてや皇帝である自身の心を動かすなど、いくら妃嬪が言葉を積んでもあり得ないものなのだから。


「若汐…か。」


そう呟いた乾隆帝の表情には笑みが浮かんでいた。


 数日後。

若汐はあの演奏から変わらずに噴水建設の工事の仕事を手伝っていた。

 郎世寧の傍、指示を受けるとすぐさまに目的にへと行く。

無駄のない働きはいっそ見ていて清々しかった。

掟を破る行動も一切していない。

 女官長は密かに働きすぎでは、と若汐を心配していたが全くもって問題なかった。

 現代で無理やりに近い形で押し付けられてきた雑務や残業に比べれば、なんてことはなかったのである。

現代社会の闇が垣間見えるのが若汐の働きぶりだった。


「若汐、身体は大丈夫デスカ?」

「問題ありません。ありがとうございます。」


 疲れを一切見せない若汐。

明らかに疲れは溜まっているはずなのだ。

なのに一切そのような仕草は見せない。

 宮女は寝る時は大人数である。

掟で寝返りをうってはいけない。

仰向きに寝てもいけない。

もちろん、いびきなどは御法度である。

 それは郎世寧付きの特別な女官であろうと逃れられない掟なのに。

どれほど未来では働いていたのだろうか、と郎世寧は別視点から心配になった。


──だがその日々が、今日この日。終わろうとしていた。


「お探し致しました。若汐様。」

「李太監。いかがなされましたか?」


 乾隆帝の側使え、李玉が若汐の元へやってきた。

本来ならここにいるべき人間ではないはずだ。

 乾隆帝に言われて建設現場を見にきたのだろうか、そう思案し始めた時にある異変に若汐は気がついた。


(今、李玉は私のことを何て呼んだ?)


冷や汗が出そうになるのを若汐は気合いで止める。

汗をかくのも掟で禁じられているからだ。


嫌な予感がする。


昔からそういう予感だけは若汐という人間は当たる方だった。

しかしどうにか笑顔を崩さず李玉の答えを待った。


「勅命でございます。本日をもって若汐様は魏常在に封じられました。2人の側仕えと寝殿が陛下より下賜されております。今宵、夜伽がございますのでお支度を。」


(最悪の展開きたー!!!!)


 若汐の嫌な予感は当たってしまった。

恐れていた事態がきてしまった。

 李玉は乾隆帝から命を受けたあの日、若汐の現代でいう戸籍や宮廷での様子などの調査を行なっていたのである。

 今まで目立たないようにしていた努力はどこに行ってしまったのか。

後宮に入るなどごめん被ると思っていたのに。

 あの女の園に自分のような人間が入るだなんて絶対に嫌だったというのに。

いつだって人生は思うようにはいかない。

思い通りに行く人生などありはしない。

 それは現代でも同じことだ。

側で聞いていた郎世寧は、「おめでとうございます。魏常在。」と彼女を祝った。

若汐は自身の運命を心で呪った。

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