後宮入り

第22話 

 下賜された寝殿は翊坤宮よくこんきゅうであった。

現代にも存在している寝殿の1つである。

 寝殿に仕えたことはなかった若汐ルオシーはその広さに驚愕する。

装飾品も豪華だ。

 展覧会で見た物が沢山当たり前のように置かれていた。

 こんな寝殿に自分などが住んで良いのかと現代の考えを持つ若汐が戸惑うほどだった。

 李玉に言われた通り、夜伽の準備をする為に若汐は身を清めた。

もちろん1人ではない。

 乾隆帝から下賜された宮女の2人に手伝ってもらってである。

これが当たり前になってしまうのだろうか。

ため息を漏らすのを若汐は我慢した。

 ため息を漏らしてしまったとしても、妃嬪に封じられた彼女に対し誰も咎める人物は居ないというのに。

そんなことは若汐にとってどうでも良かった。

 あれほど気をつけていたというのに見事に後宮に入らないという想いは玉砕された。

皇帝というものは恐ろしい存在なのだと痛感させられる。

 たった1つの意思だけで物事を動かす事が出来る。

この当時の皇帝の考えは自身は天の子である、という考えだ。

 まさしく本当にそう考えているのだと若汐は考える。

 一体いつから自分の事を気にかけていたのか。ただピアノが弾けるだけの女官に何故興味を持ってしまったのか。

男性経験が乏しい若汐は分からない。


(考えるだけ無駄か…もう1度タイムスリップしたいな。)


時間をもう1度巻き戻すことが出来たらどんなに良いのだろうか。

若汐は遠い目をした。




「娘娘、どうされました?お召し物が気に入りませんでしたか?」


 乾隆帝から下賜された宮女の1人、若汐の側仕えの春海チュンハイは主人の顔を覗き込んできた。

なんでもないわ、と優しい声色で春海の主人は笑顔で返してくる。

 その優美さに満ちた笑顔に彼女は少し見惚れてしまった。

今日付けで魏常在と封じられた元円明園の郎世寧付きの女官。

 最初は円明園の女官が?と春海は思っていた。

円明園はあくまでも紫禁城の離宮だ。

 皇帝が足繁く通うような場所ではない。そもそも距離がある。

散歩感覚で行くような場所ではないのだ。

 せいぜい気晴らし程度に偶に行くくらいなのが円明園という離宮。

その気晴らし程度の頻度でこの主人は自身の事を射に止めたのだという。

 主人の容姿はどんなに言い繕うとも今、紫禁城に居る妃嬪達には敵わない。

年齢に伴わない幼い顔立ち。

 肌は東洋人独特の若干黄色味が入った白い肌。

紫禁城に居る女官と比べてもそこまで美人と言える容姿ではない。

 だが、よく見ていると所作がとても綺麗なことに春海は気が付いていた。

笑顔も他の宮女とはよく見てみると違う。

 ただ見ただけでは気がつくことは出来ない。

 主人に仕えることが許されるくらい近い距離と時間があって気がつけるくらいの小さな違いではあった。

 だが、気がついてみればいつまでも見惚れてしまうような笑顔と動作。

他の者はそう易々と真似出来ないだろう。

 それは自分も同じである。

こんな気持ちになるのは初めてだ、春海はそう思った。

そういえば、と夜伽に向けて準備を進めながら彼女は思い出す。

 妃嬪に封じられたというのに自身に下賜された従者に対し、礼儀を尽くしてきたのである。


「初めまして、若汐よ。これからよろしく頼むわね。」


 そのような事をわざわざ言う妃嬪は果たしているのだろうか。

かつて自分が女官だったから?そう春海は一瞬思ったが違うと即座に否定した。

 女官なら尚更、妃嬪になるということは栄誉なことであり憧れである。

見下した態度をとったとしてもおかしくはないのだ。

何故なら、立場が女官より上になったのだから。

だが実際は違った。

 春海の主人となった人物はもう1人の宮女である翠蘭スイランと太監である空燕コンイェンにわざわざ挨拶をした。

 立場が変わろうとも、人としてあるべき礼儀を忘れなかったのだ。

時代にそぐわない態度を自分達にとる人物であると3人は驚いたものである。



























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