第20話 

──乾隆帝は密かにこの日を楽しみにしていた。


 国事に追われる毎日。

皇帝としての責務ではあるが、正直うんざりしていた。

 毎日のように朝議があり大臣からの意見を聞き、天子として判断を下す日々。

大清国と呼ばれるまで成長したが、まだ清に帰順していない部族が多い。

頭を悩まされる日々を乾隆帝は送っていた。


──そんな中、詩人がうたうような少女の演奏を聴いた。


 西洋の曲については詳しくはない。

だが、あの少女の演奏はとても美しいものだということは分かった。

そしてピアノの技術も高いということも選曲から分かった。


──自分にはどのような曲を聴かせてくれるのだろうか。


 それが楽しみであった。

皇后の心すら動かしたという1曲。

 あれほど息子の死と向き合えず、更には体調も崩してしまい悲しみに暮れていた日々。

乾隆帝も皇后を一生懸命慰めていたがその心が届くことはなかったというのに。

 あの若汐という名の少女はたった数分間の演奏で心を前向きにしたのだと言う。


──どれほどのものか、興味があった。


 政務が落ち着いた午後、乾隆帝は円明園に向かうことにした。

皇帝の輿が紫禁城の中を巡り、やがて離宮である円明園に向けて目指す。

 誰もが自分にひれ伏せる。


──自身は天子である。天の意志によって動いている。


 清の皇帝独特の考えであった。

円明園の噴水建設は郎世寧の設計図のおかげで滞りなく順調に行われていた。

女にうつつを抜かす宦官ももう居ない。

時間を効率良く使う働き者しか居なかった。

 しばらくすると皇帝の輿は円明園の入り口にて下された。

今日の乾隆帝の服装は、金色の上着に下は紺色の服装に身を包んでいる。

龍の紋は所々に刺繍が施されている服装であった。

乾隆帝が輿から降りると工事の手が次々と止められ、地面にひれ伏せられる。


──その中で東屋だけが違った。


薄緑の女官の服を着ている少女だけ、ピアノの椅子に座り虚空を見つめていた。

虚空の先には何もない。

ただの木々しかない。

だが少女は熱心に見つめている。

鍵盤に指を置いたまま、ペダルに足を置いたまま、動かない。


──まるで1枚の絵画でも見ているかのようだ。


その少女だけ時が止まっていた。


「若汐、陛下がお見えになりましたよ。…陛下に謁見致します。」

「陛下にご挨拶致します。」


 若汐と呼ばれた少女は郎世寧に声をかけられると、途端に動き出し乾隆帝に深くお辞儀をした。地面に頭をつける程に挨拶をする若汐。

 自身の立場というものを良く理解していることを乾隆帝は悟った。


「2人とも楽にせよ。」

「はい、陛下。」

「感謝致します。」


 郎世寧に続き、若汐は言い2人は立ち上がった。


──遂にきた。


若汐は静かに深呼吸をした。

落ち着け、と自分に言い聞かせる。

ずっとこの時の為にイメージトレーニングを行なっていた。


──心臓の鼓動がとても煩かった。


まるで太鼓の音のように煩くて心臓が痛かった。


──この緊張感は良い緊張感だ。乾隆帝を恐れて緊張しているわけではない。


そう強く言い聞かせ、自身を落ち着かせる。

 時の皇帝に『皇帝』を聴かせようだなんて考えを持つ現代ピアニストは一体どれ程いるのか。

 恐らく若汐以外にいないだろう。


──手の指が少し震えていることに気がついた。


緊張がなかなか解けずにいた。

 おかしなものだ。若汐はそう自身に思う。

もっと緊張する場面なんて今まで沢山あったのに。

 コンクールとか演奏会とか沢山あったというのに。

 時の皇帝に自身の演奏を聴かせるというだけでこんな様になっている。

情けない。あんなにメンタル調整には気遣っていたというのに。

 どうしたものか、と若汐は少し頭を悩ませる。

そんな中、師の言葉が頭の中に響いた。


『カンタービレだよ、島野さん。』


 もう会うことも叶わないかもしれないあの優しい声を、思い出していた。

スッと緊張感が明らかに切り替わった。

 まるで人格が変わるように切り替わった。


──大丈夫、いつものように弾けば良い。


それはとても簡単なことで、でも同時に難しいことでもあった。

そうだとしても今の若汐は。

あぁ、大丈夫だと自信が後から付いてきた。


「朕に何を聴かせてくれるのだ?」

「はい、陛下。ベートーヴェンという人物が作曲した曲、『皇帝』第一楽章でございます。この曲は本来、ピアノだけで弾く曲ではございませんので足りない部分はピアノと歌で披露したく存じます。」

「『皇帝』…面白い。朕に題名が当てはまっておる。」

「喜んで頂き幸いでございます。」

「では弾いてもらおう。」

「かしこまりました。」


 蓋は既に全て開けてあるので、後はペダルと身体と鍵盤の距離の調整のみ。

若汐の中にはもうほとんど緊張というものはなかった。

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