第19話 

 翌日。

 若汐ルオシーは乾隆帝が自身のピアノを聴きに来るからといって、宮女としての仕事を手を抜くことはなかった。

 いつのように郎世寧付きの女官として人一倍働いている。

別段、緊張もしていないらしい。

普段通りに掟を守って行動している。

 一方、郎世寧は当事者でもあるまいに何故か緊張していた。


──作法について何か失敗するのではないか。

──前回、初めて陛下と出逢った時は明らかに緊張をしているように見えた。

──ならばピアノは問題ないと言ったがそれは乾隆帝の前での強がりではない

か。


 昨日の見た事のない若汐の笑みを思い出すと、郎世寧には緊張と不安が混じり合っていた。

 まるで娘を思う父親のように。若汐のことを心配していた。


「郎世寧様、顔色が悪いようですが大丈夫ですか?」

「だ、大丈夫デス…。ちょっと緊張してしまいマシテ。」

「緊張ですか?何か工事に不備でも。」

「イイエ、噴水工事に問題はありマセン。…若汐のピアノのことデス。」

「私のことでしたか。ご心配なく。陛下にも郎世寧様にもご満足頂ける演奏を披露致します。」

「随分と自信があるんデスネ…。」


未来のことなど誰にも計り知れない。

未来の自分など誰も知ることは出来ない。

もしかすると演奏で大失敗してしまう未来だってあるかもしれないのに。

若汐という少女は心配ないと自信を持って言う。


「演奏家の敵はいつだって自分自身です。ですから、少なくとも自信くらいは持っていないと何も出来ません。」


(こんな豪語してみたけど、皇帝に『皇帝』聴かせるとか超ビビってマス。だって、こんな状況あり得ないでしょ!1人で皇帝弾くとかあり得ない!ハッタリですよ、郎世寧さん。でもね。)


ハッタリも時には大事なことである。

それはメンタル調整の1つであった。

若汐は嘘にも近い大きなハッタリをかましたが、それを訂正することはなかった。


──敵はいつも自分自身、画家もそうだった。


この絵画が評判が良くなかったらどうしようか。

この絵画のあの部分はもっと精巧に描けたのではないか。

他の画家はもっと綺麗な色使いが出来ているのではないか。

もっと美しいものが描けるのではないか。


──いつだって自問自答の日々。


正解なんてどこにあるか分からない。

いや、正解などどこにもない。


──だからこそ自身に自信を持つことが大切だった。


そうでなけれは絵画を描き続けることなど出来ない。

好きでなければ絵画を描き続けることなど出来ない。


──それは演奏家も同じだというのか。


若汐はそう言ったのである。


「楽譜があるというのに、そうなのデスカ?」

「演奏に、これが正解というものはありませんよ。だって音楽は想いを伝えられるのですから。伝えたい想いは千差万別。だから正解などありません。もちろん、楽譜という基本はありますけれど。」


音楽なら、想いを伝えられる。


情熱を失おうとも消えない想い。


それはきっと、若汐がずっと演奏家として活動してきた中で出来上がった心の底にある信念。


たった1曲が皇后の心を動かしたように。


音楽なら、想いは伝えられると。


少女は音楽はそういうものであるとそう信じている。


「そう…デスカ。」

「はい。ですから、あまり緊張なさらないで下さい。」


気品に満ちたいつもの笑顔で若汐はそう言った。

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