恐れていた事態
第18話
──染めたように青空がのぞく晴れた日のこと。
本当は必要ないのに、と若汐は断ったがお願いだから練習時間を取ってくれと郎世寧に言われてしまったのだ。
必要のない理由はいくつかあるが、まず『皇帝』の曲そのものは全て楽譜は記憶しているというのが1つある。
英雄ポロネーズに続き、難易度が高い曲であるが若汐がかつてこれでもかと練習した曲だからだ。
それもそのはず。音楽大学で1番最後に弾いた曲なのだから。
ピアノの部分は全くもって問題ない。
もし問題があるとするならば協奏曲ということだ。
オーケストラの部分を歌だけで奏でなくてはならないことだった。
普通の人間ならここでつまづいてしまうだろう。
もう一台、ピアノが弾ける人が必要という人もいるかもしれない。
──だが、若汐は弾き歌いも得意である。
これもまた彼女にとっては問題にはならなかった。
問題、と言うべき点ならば『皇帝』を弾いたのは学生の頃以来だった為に随分と時間が経っているということだった。
いわゆるブランクというやつである。
下手になったというわけではない。
単に感覚が少し鈍ってしまっているだけである。
故に乾隆帝を満足させるまでのレベルまで曲を仕上げる必要があった。
否、自身が納得するまで曲を磨く必要があった。
例え今、乾隆帝が『皇帝』を聴いても、どこを間違えたか、どこが良くなかったか、そういったことは分からないだろう。
東洋の楽器に精通していようが、西洋の楽器までは時の皇帝だろうが分かるまい。
よって聴かせたところでほとんど問題はないのだ。
だから必要ないと考えていた。考えていたのだが、郎世寧に言われふつふつと湧き上がる感情を止めることは出来なかった。
──若汐自身がブランクのある演奏など許さなかった。
自分が許してはくれない。過去の自分も許すことはないだろう。
情熱を失おうともあり続けるピアニストとしてのプライド。
妥協だけはどうしても出来なかったのである。
思い出の曲だから、というのもあった。
「今日も熱心デスネ。」
「すみません、気がつきませんでした。郎世寧様、何か御用でしょうか。」
「イイエ、特に用はありません。噴水建設も順調デス。ちょっと休憩デス。」
「左様でございますか。何かありましたら遠慮なくおっしゃって下さい。」
若汐は鍵盤に指を置いて虚空をじっと見つめていた。
──イメージは自分は大きなステージのピアノの前に座っている。
ドレスは派手な曲を弾くのだ、情熱を象徴する赤色がいいだろう。
ステージのライトの暑さを感じながら鍵盤に指を置く。
オーケストラは自身の左側にあり、彼らと指揮者と一瞬だけ目を合わせて『皇帝』を弾き始める。
実際、練習で弾く時は歌で補う必要のない所はピアノでオーケストラの部分を弾いて補っていた。
「よし、いい感じです。」
「今、何をしていたんデスカ?」
「イメージトレーニングです。恐らく陛下はここでお聴きになられるかと思いますが、現代で弾くならば自分はどうなるか、頭でトレーニングをしていました。」
「そのようなことも出来るのデスカ!?」
「はい。いつでもピアノを弾けるわけではありませんから。」
『皇帝』は第一楽章だけでもおよそ20分以上かかる曲である。
退屈させない為にはいかにオーケストラとピアノの部分を上手く表現するか。
東屋で実際は弾くわけだが、現代でもどうなるか。
ピアニストとしてはどちらもイメージだけは分かっておく必要があった。
「若汐にはいつも驚かされマス。」
「申し訳ございません、郎世寧様。」
ピアノの椅子から立ち上がり、深々と頭を下げる若石。
慌てて郎世寧は立ち上がり頭を上げるように言った。
「すみません!文句を言ったわけではありません!褒めたんデス!」
「左様でしたか。勘違いして失礼致しました。お褒め頂き感謝致します。」
──やはり品格というものは消えない。
郎世寧は若汐を見て思う。
若汐自身は恐らく意識はしていないだろうが、下げた頭も上げた所作も実に優雅だった。
──リサイタルのステージに立てない時に常に意識していたイメージトレーニング。
それが若汐に染み付いているからこそ気品に満ちている、ということは本人は全く気がついていない。
気がつくのは位の高い人物のみである。
例えるなら乾隆帝、皇后と言った人物。
それは『宮廷画家』という身分がある郎世寧もその中の1人であった。
「全く、若汐は凄いデスネ。」
「何がでしょうか。」
「…イイエ、忘れてください。明日、陛下が来られるようデス。ピアノの準備は大丈夫デスカ?」
「最初から問題はありません。少々、弾いたのが昔だったもので念の為に時間を頂いただけですから。以前も言いましたが本当なら必要もなかったのです。」
「そうでしたか。それは安心デス。ちなみに何を披露するつもりデスカ?」
「それは聴いてからのお楽しみです。」
恐らくはイタリアでも聴いたことがあるだろう曲。
初演はドイツの時代の曲だ。
郎世寧に誤魔化しは効かないだろう。
若汐はもちろん、誤魔化しなどピアニストとしてのプライドが許さないが。
「自身の全てをかけて披露致します。」
若汐はいつもとは違う、高貴さに含まれた不敵な笑みを浮かべていた。
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