第17話 

「あぁ、これはきっと若汐…例のピアノ弾きの音です。」


 乾隆帝、皇后、2人の妃嬪の輿が円明園の入り口に到着した。

 今日も皇后は両把頭の中心にラピスラズリが飾られており、造花も着けている。

 服装は控えめな黄色の色地に蝶の刺繍が施されていた。

乾隆帝の今日の服装は茶色の敷地に龍の紋、腕の袖などに金色が見える。

弁髪の上に被っている半球の形をした帽子も同じような色合いであった。

──英雄ポロネーズの音色は円明園の入り口からでも十分に聞こえてきた。

 すぐに皇后は若汐が弾いているのものだと気がついた。

若汐自身は気がついていないが、歌うような音色は1度聞けば忘れられなかった。


「とても難しい曲を弾いているように聞こえます。」

「そうですよね…お姉様…。初めて聞きました。これが『ピアノ』ですか?皇后娘娘。」

「えぇ。陛下、いかがですか?」

「…難しい曲を弾いているようだが、とても美しい。朕も直接見てみたい。」


 4人と従者達は円明園の東屋へと向かう。

徐々にピアノの音は大きくなっていく。

 だが、音色は乱暴にならない。

雑にもならない。

 むしろどんどん丁寧になっていく。

東屋の周りに居る宮女や宦官達、工事の男達は4人に気がついて慌てて礼をする。

郎世寧も気がつき、若汐を止めようとするがそれを乾隆帝が止めた。

──乾隆帝の顔に、笑みが浮かんだ。

 まるで1枚の絵画を見ているようだ、と乾隆帝は思った。

郎世寧からの贈り物で西洋の絵画はいくつも見ている。

 その絵画から出てきた1枚の風景を見ているようだ。

美しいその音色は乾隆帝にそう思わせた。

──少女は決して美人の類ではない。

幼い顔つきに、手足が普通の年頃の少女より短い。

だがそれに関係なく、気品に満ちた所作でピアノを弾き続けている。

──薄緑の宮女の質素な服が乾隆帝には『ドレス』に見えた。

 激しいメロディーのはずなのに腕も指も慌てることなく優雅に動かしている。

息も乱れていない。

 まるで歌っているようだ。

──その日、確かに円明園に歌うようなピアノの音色が乾隆帝の耳に入った。

 若汐は最後の難所を弾き始め、終わりに進めていく。

 ピアノの詩人は最後の最後まで歌うことをやめなかった。

 弾き終わり、いつものようにお辞儀をしようとした時に初めて若汐は4人の存在に気がついた。

さすがの若汐も内心で酷く慌ててしまう。


──罰を受けてしまう!


自分の集中力の高さを若汐は呪う。

すかさずピアノから離れて、1番深いお辞儀をした。


「陛下に謁見致します。皇后娘娘、嫻妃娘娘、愉嬪娘娘、ご機嫌麗しゅう。」

「立つがよい、慌てることはない。朕達がこれは悪い。そなたの演奏を邪魔してしまった。」

「大変失礼致しました。感謝致します。」


 今度は慌てることなく素早く立ち上がる。

内心、若汐はまだ心臓の鼓動の速さが止まらない。

 心臓が口から飛び出してしまうんじゃないだろうか、と思うほどであった。

若汐は俯き加減で4人と向き合う。

──最悪な形で会うことになってしまった。

──しかも1番会いたくない人と。

 穴があれば入りたいと、逃げられるなら今すぐにでも逃げたいと彼女は強く思っていた。

──だが若汐の願いとは裏腹に乾隆帝は一連の仕草で若汐に秘められた気品の良さを見抜いていた。

 慌てていたとしても速やかで綺麗な礼。

 自分達に気が付かない前にしようとしていた西洋の『貴族』がするような一礼。

──一朝一夕で身につけられた気品ではあるまい。

 それにきちんと気がついていたのである。


「驚かせてごめんなさいね、若汐。陛下に貴女のことをお伝えしたらピアノを聴きたいとおっしゃってね。」

「皇后娘娘、左様でございましたか。お見苦しいところをお見せ致しました。」

「何も伝えずに来たこちらが悪かったわ。とても素敵な演奏をするのね、若汐。」

「過分なお言葉でございます、嫻妃娘娘。」

「そんなことはないわ。この紫禁城でピアノを弾けるのは貴女1人だもの。」

「私は郎世寧様に基礎を教えて頂いただけでございます。他の宮女も努力をすれば出来ましょう、愉嬪娘娘。」

「そうかしら。以前、私に弾いてくれた曲よりも難しい曲に聞こえたのだけど。」


 確かにそうである。

 以前、皇后に披露した曲『亡き王女のためのパヴァーヌ』は難易度自体は高くはない。

 ただし、表現力が求められる曲であるので簡単な曲とは言い難い。

 若汐が先程まで弾いていたポロネーズ第6番は、主に技術が求められる曲ではあるが技術だけなら素人でも努力すれば弾くことは可能だ。

 ショパンの別名はピアノの詩人と呼ばれるほど。

つまりこの曲も技術の高さだけでなく、表現力も求められる曲なのである。

 ただ強弱をつければいいだけではない。

 ただペダルを上手に踏みこなせばいいだけではない。

 ただ技術の高さを披露すればいいだけではない。

──カンタービレ。歌うようにどれほど弾けるか、それが試される曲である。

ピアノの詩人と呼ばれた作曲家が作曲した曲なのである。

 歌うように弾く、それは至極当然のことであった。

それは若汐が1番得意とすること。

 幼い頃から歌うように弾くことを言われてきた彼女にとっては当たり前に出来ることであった。

──それら全てを普通に弾きこなせるピアニストは多くはない。

若汐はその数少ない1人のピアニストだったのだ。

情熱を失おうと歌うことだけは彼女は忘れなかった。


「お答え致します、皇后娘娘。今日は噴水建設の工事でお疲れの方々が多いとのことで郎世寧様から盛り上がるような曲を弾いて欲しいと命じられ、以前よりも難しい曲を選曲致しました。」

「そうなのね。あの時と変わらずとても素敵だったわ。」

「過分なお言葉でございますが、感謝致します。」


 若汐は深くお辞儀をする。

 地面に頭をつけるくらいまで深いお辞儀をしていると、若汐の小さな手を誰かが手を引いていた。

──誰だろうか。

 そう思いながら恐る恐る顔を上げると、そこには乾隆帝の顔があった。

満州族独特だろうか、釣り上がった太い眉毛に墨色の瞳。

こちらも東洋人独特と思われる少しばかり黄色がかった白い肌。

清朝の象徴である黒い弁髪。

 現代でも恐らく整った顔立ちだと思われる顔が若汐の瞳に写った。


「立つがよい。」

「感謝致します、陛下。」


若汐は素早く立ち上がる。

彼女は時の皇帝に気に入られたことには全く気がついていない。

男性経験がほとんどない人生を送っていたためにそれは仕方のないことと言えた。


「今度は朕のために弾いて何か弾いてくれないか?」

「はい、仰せのままに。」


さて、この皇帝を満足させるには何を聴かせるべきか。

若汐は思案する。

──あの曲しかない。

そう即決した。

 ピアノ1人で弾くには本来なら出来ない曲であるが、イタリア歌曲を十分に歌える彼女には可能な1曲。

 若汐が大学の卒業演奏でかつて師と共に弾いた思い出の曲。

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートヴェン作曲、ピアノ協奏曲第5番変ホ長調作品73『皇帝』。

 現代では世界的有名な指揮者、バーンスタインが指揮を振っていることで有名な1曲。

──それを奏でよう。

 まさしく『皇帝』に向けて弾こうとピアニストとして久しぶりに気合いを入れると決めた日の出来事であった。

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