第13話 

「では若汐。貴女の頃合いで奏でてちょうだい。」

「はい。皇后娘娘。」


 若汐は宦官の誰もが触れなかった譜面台の蓋を軽々を開けた。

 そしてピアノの弦が集まっている大きな蓋を、1番響く方で開き下にある支える棒と蓋をしっかりとハマるようにセットする。

 その風景に皆が唖然としていることに若汐は気が付かない。

彼女は準備にのみ集中している。

 グランドピアノには2段階響くように小さな棒と大きな棒が仕舞われている。

小さな棒は小さめに響かせる用、大きな棒は大きく響かせる用だ。

 東屋でピアノの音を響かせるには大きな方が必要だと判断した若汐は慣れた手つきで開ける。


──宦官の誰もがやろうとしても恐らくは無理だったであろうことを小さな身体で行った。


 コツさえ知っていれば、小学生でも出来ることを誰も知らない。

 続いて若汐は椅子を慣れた手つきで調整し身体と鍵盤の位置、椅子と鍵盤の高さを確認する。

 問題なしと判断。

最後はペダルを何度も踏んでは離してを繰り返し、しっかり踏めるかを確認した。

 問題なしと判断。

宮女の靴でペダルを踏みこなす難しさを知っているのはこの中では郎世寧だけである。

静かに鍵盤に指を置いた。


──若汐は小さく、息を吸い込んだ。


そして恐ることなく奏で始めた。

弾き始めた曲はフランスの作曲家モーリス・ラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』。

これは決して鎮魂歌ではない。

 ノスタルジア──懐かしさや追憶を表現した曲である。

鎮魂歌を弾いたところで皇子の魂は鎮まらない。

母親である皇后が死を乗り越えて初めて皇子の魂は鎮まるだろう。

──ならば楽しい思い出を思い起こさせる曲を弾こう。

 最期は悲しくとも楽しかった日々は確かに存在したはずなのだから。

若汐はそのような想いを込めて弾き進めていた。



(なんて…美しい音…)


 皇后の常夜のような黒い瞳からいくつもの雫が溢れ落ちた。

新緑に囲まれた東屋の中で弾く1人の少女から奏でられる音は美しいものだった。

 昨日は大雨だった為に葉から雨水が滴り落ちる。

周りにある花々からもいくつも滴り落ちていた。

 透き通るような青空に届くような音は息子との思い出を思い起こさせた。


──早産であった。


 それでも愛する夫との息子の誕生に覆いに喜んだ。

皇后にとって嫡子を産むことも責務の1つである。

 それを無事に果たせたことも喜びであったが、何より息子が可愛かった。

乳母と共に小さな身体に気をつけて抱き上げたこと。

ふっくらとした幼い顔が何よりも愛しかったこと。


──何に代えてでも守りたいと思ったこと。


 最期に病気のせいで看取れずに死なせてしまった後悔しか皇后の中にはなかった。

その後悔に囚われていたことを奏でられる音を聞いて気付いたのだ。


──これではいつまでも息子の魂は鎮まらない。


後悔は確かにある。それこそ言葉に尽くせないほどに。

 だが、愛しく思っていた思い出が自分の心の中に確かに残っている。

楽しかった日々は、愛していた日々は確かにあったのだと皇后は思い出していた。

 いつだって前を向くと決めるのは自身の意志しかない。

それはどの時代でも同じことだ。悲しみは自身で乗り越えていくしかないのだ。


──自分は皇后である。この大清国の国母である。


皇后は溢れていた雫を持ち歩いている布で拭く。

そこにはもう後悔の念に囚われていた皇后は居なかった。


──たった1つの曲が、皇后の心を動かした。


若汐の信念は確かに皇后に届いていた。

……全て弾き終わり、若汐は両手を膝の上に置く。

ペダルからもそっと足を離す。

 静かに立ち上がり、いつだかのリサイタルと同じように慣れた仕草で踊り終えたようにお辞儀をした。

 若汐にとっては慣れた行為であるが、皇后にとっては珍しいものであった。


「素晴らしい演奏だったわ。才能があるのね。」

「過分なお言葉でございます。」


 難易度はそこまで高い曲ではないものの、表現力が試される曲であった。

どれだけ弾き手が音色に色を付けられるか。

 ペダルやその環境を活かして響き渡せられるか。

ピアニストの腕前が試される曲であった。

ここはただの東屋である。

 若汐が現代で慣れ親しんだリサイタルのホールのような環境ではない。

弾けば響くとういうわけではないのである。

 だが若汐はその不利すら有利に活かしきった。

皇后が言う通り、若汐には確かに『才能』があったのだ。

──それが当然である、と思っていることは本人しか知らない。


「ぜひ、私の女官にしたい所だけどそれだと郎世寧が困るわよね。陛下が特別にお許しになられたのだし。」

「全ては皇后娘娘の仰せのままに。」

「…また、私の為に奏でてくれるかしら。」

「はい、仰せのままに。」

「……ありがとう。」


皇后と若汐は目が合った。

 若汐は皇后が瞳に雫を貯めたまま笑ってお礼を言っている表情に少し驚いた。

先程の暗い表情と明らかに違っている。


──少しは私の想いが伝わったのだろうか。


 笑顔の表情を崩さないまま若汐は思う。

情熱を失っていたピアニストに小さな灯火が宿った出来事の日であった。

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