第11話
──自分が不甲斐ないばかりに永琮は死んでしまった。
青く透き通るような天気の日だというのに皇后・富察氏は気を落としていた。
昨日で皇后の息子が亡くなってちょうど百日。
その悲しみが癒える日はなかなか来なかった。
今日の天気のような暖かな日差しの温もりが心に灯ることはなかったのだ。
例えるなら暗い曇天の空からしきりに振り続ける雨のよう。
その雨が止むことはない。
後宮の主としての責務、愛する息子の死。
皇后は重なる重圧に耐えきれずに体調も優れない日々を送り続けていた。
そんな中昨日、夫である乾隆帝にこう提案された。
『動ける体調なのであれば、円明園の庭でも見て心を癒したらどうか』と。
確かに円明園は先帝の時代から力を入れており、現皇帝である乾隆帝は西洋に大変興味を持っている為に西洋式のものが増えている。
恐らくは皇后の寝殿よりも美しいものが多いだろう。
──それは後宮に居る妃嬪達も同様だ。
暗然の瞳は細められる。
皇后は嫉妬こそしないが、煌びやかに着飾る妃嬪達を何処か哀れに思っていた。
──そんな美しく着飾ろうと皇帝の心は掴めないというのに。
後世、1番愛されたとされた皇后さえそのような心情だったとは誰も思うまい。
「娘娘。到着しました。まだ地面が濡れていますのでご注意下さい。」
「分かったわ。」
皇后付きの女官が話しかける。
やがて円明園に金色の色合いに近い皇后の輿が下ろされた。
何十人もの宮女と宦官が様々なものを持ちながら付き従っている。
皇后はゆっくりと輿から降りて、女官の手を取りながら地面に靴を着けた。
──現代から見ればそれは独特な靴であった。
コツンとヒールとはまた違う音が鳴り響く。
その靴は踵が高いわけではない。
足の中心に当たる部分が高いのである。
その靴にはルージュのような色の敷地の上に蝶の刺繍が施されていた。
現代のヒールに当たる部分にも横に装飾が施されている。
清朝時代、
何故中心が高いのか、それは女性は大股で歩いてはならないという習慣があったからではないかとされているが諸説ある。
靴の名は
現代で言うヒールに当たる部分を
「皇后娘娘、ご機嫌麗しゅう。」
濡れた地面に女官達が膝をついて地面に頭を着ける。
儀式でもない日にここまで丁寧に挨拶をする必要はないが、昨日は第7皇子の百日忌。
皇后の心情を考えると最大限の礼儀が必要であると女官長は判断し、それに宮女達は粛々と従った。
「皇后娘娘にご挨拶致します。」
宮女達に倣い、郎世寧が衣服の汚れを取り地面に膝をつき頭を下げる。
男性の場合はこのような挨拶の仕方が基本であった。
イタリア人であるはずの郎世寧ももう挨拶の仕方も慣れたもので、地面が濡れて朝服が汚れようが関係なかった。
「お立ち。」
「感謝致します。」
郎世寧が立ち上がる。
青い朝服が少しばかり濡れていたのが見えた。
宮女達はまだ地面に頭を着けたままである。
少しだけ郎世寧は心配していた。
もちろんそれは若汐のことである。
皇后に会うのはこれが初めてであり、作法で何か失敗しないかと少し不安に思っていた。
だがそれは無用のことだったと視界に一瞬入った彼女を見て安心する。
他の宮女達と全く同様に綺麗にお辞儀をしていた。
あとは皇后の許可が下りるのを待つだけ。
「皆、お立ちなさい。」
「はい。感謝致します。」
皆声を合わせて言う。
最初に女官長が立ち上がってから、続いて他の宮女達も立ち上がった。
──1人の宮女が皇后の晦冥のような黒い瞳に写し出された。
その宮女は俯き加減でも分かるくらい顔は他の者よりも幼かった。
手足も見た限り、この時代の人間にしては小さい。
しかし誰よりも気品があるのを皇后は見逃さなかった。
所作がとても丁寧で優雅だったのである。
──もしかすると、どの妃嬪達よりも優雅だったかもしれない。
それくらいに見惚れてしまうほどであった。
「郎世寧。専属の女官を陛下にお願いしたそうね?」
「はい。若汐、こちらへ来なさい。」
「かしこまりました、郎世寧様。」
小さな声、だが凛としてハッキリとした言葉だった。
──掟の通りに歩く姿は何故か格格を思い起こさせる。
郎世寧付きの女官となったのは先程、皇后が見惚れてしまっていた宮女だった。
その宮女は先ほどと同じように挨拶をした。
普通の女官なら簡単な方の挨拶で済ませてしまうであろう所を、その宮女は飽きもせずに地面に頭を着けた。
初対面だからだろう。
この宮女は第一印象と言うものがどれほど大事なのか分かっている。
(この子、とても頭がいいのね。)
皇后はそう感じ取った。
「楽になさい。」
「はい、感謝致します。」
宮女は立ち上がり頭を下げる。
皇后は乾隆帝から1度見せて貰ったことのある西洋の絵画を思い出していた。
そこには煌びやかな服、『ドレス』と呼ばれるものを着ている身分を『貴族』と呼ばれる者たちが踊りを終えてお辞儀をしている絵画だ。
その絵画から出てきたような頭の下げ方に皇后には見えた。
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